Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

「ゼロからの論証」三浦俊彦

ゼロからの論証

ゼロからの論証


●stage3 メタレベル
3ー3 ファンタジーとしての<私の宇宙>ー虚構の美的選択、自己の観測選択
4 「強い人間原理」から「弱い人間原理」へ
(p87)

トークンとして厳密同一のこの私ではなく、タイプとして同一の、私<のような>自意識的存在がどこかに実現してさえいれば、私はこの世界を観測していることになる。

まず。私<のような>自意識的存在がどこかに実現しているというこの状況はなぜ起こったのだろう。自意識的存在が一つも生じないというふうになっていないのはなぜだろう。知的生命が居ることと「少なくとも一人」私のようなものが居ることをつなげる方法があるだろうか。あるいはそのような疑問が生じているという前提の元では"私"が存在するのは当たり前であるというなら、その疑問が生じるようなこの状況("私"が居る)が起こっているのはなぜだろう。

それと。嫌だけれど、他者の中の私のようなものを"私"と並列に論じることが出来るとしてみよう。その上で、ある世界に少なくとも一つの自意識的存在が存在するとする。それだけで「私はこの世界を観測していることになる」と言えるのか。それが「別の自意識的存在」であることはないのか。その別の自意識的存在が、どうして自分は居るのかという疑問を持ったとしよう。でもその世界に"私"が居ないならば、その疑問は生じていないのと同じではないか。
自意識的存在がいつどこに宿っても只一人しかいない自意識的存在(この"私")がそこへ入る仕組みであると言っているのなら、きっとまあ言うとおりなのだが、「観測の主体ではない「他者」」と直後で述べているので、この文脈ではそうではのないだろう。


●stage4 バイアス
4ー2 自然選択説が選択する不自然な自然選択
6[脳に生まれたのだから脳だけに生まれる]のか?
(p152)


・(脳のような)複雑な物質は生じにくい。
・私では意識は脳に依存している(少なくともそう見えることは認めます)。
コペルニクス原理により、私は特別な場所ではない
という話で、
「意識と脳とが独立なら、私という意識が脳として生じた確率は低い。実現確率の高い対立仮説は、意識は脳を必要条件とするというものである。」
と言っている。この種の議論に関する三浦さんの話、これでやっと納得できた。というかやっと阿呆な頭でも理解できた。気がする。(ここで脳は、脳そして知性としてもいいのか。ふむなるほど。)
待てよ、私以外にも意識があることを前提としているのか?否、そういう想定で話してるのかもだが、意識が一つしかなくてもなりたつよね?
しかし知性だけでなくそこに意識があって初めて選択になる、か?そうか?哲ゾの知性が選択の議論をしているのではだめなのか?三浦さんは哲ゾかもしれないじゃないですか。そしたらこの本の議論はどうなるの?

あ、それも次のセクションに書いてあったけど。F3を言うのが哲ゾであるかもしれないじゃない。あ、私が言えばいいのか。
F4もそう?でもない?
私の乗り物であるこの人が哲ゾじゃなかった。だから他の人々も哲ゾではないだろう。これ、地球に知性が生まれたからどこにでも知性が生まれるだろうみたいなものか?
ああ、ちゃんとそう書いてあるわ。

この世界においてなら、とにかく脳が一つでもあれば私はそこに宿る可能性があった。それを認めたとしたら今度知りたいのは次のこと。それと、私がどこにも宿らなかった可能性とを比べることができますか?

私が居る、そして脳にいる。なら私が居るのが脳だったことは必然だった可能性が高い(仕組はわからないけれど)(脳は珍しいから)。しかし脳があれば意識が宿ることに関してはそうではない。だから他人に意識があるかどうかはわからない。あってます?


●5ー1 観測選択効果と多宇宙説ー「逆ギャンブラーの誤謬」の誤謬

(p185)


ここの、シナリオCを私と私以外の意識として見たら面白いのではないか。
シナリオCはこうである。
私が起こされて賭場に連れていかれると、サイコロの6ー6が出ていた。聞くとこう決めていたらしい。一回目に6ー6が出たらPさんを連れてくる。二回目に6ー6が出たらQさんを連れてくる。n回目に6ー6が出たら私を連れてくると。

n回目以外に6ー6が出ても、私は眠ったまま放置されるので、この現実の観測Eは実現しなかったことになるのだ。

(p186)

これってまんま、私が居るか、私が居ないか、という話に相当するんじゃない?

さらに。まず普通にはn回目に6ー6が出て私、chiiが呼ばれたら6ー6が観測される。そして別の世界で私がchiiではなくQさんだったとしよう。そうしたら2回目に6ー6が出てQさんが連れてこられたときに、6ー6の観測は、起こる。つまり、chiiが呼ばれたときに観測が起こるのでなく、私が呼ばれたときに観測は起こるのだと言いたいのでした。
私にとっては、私が呼ばれるか呼ばれないか。この想定では、n回目に出たら私が呼ばれると決められていることが重要であり、他の回で他人が呼ばれるか呼ばれないかはどちらでも良いだろう。只n回目に6ー6が出れば私は観測する、すなわち存在する。n回目に6ー6が出なければ私は観測しない。すなわち存在しない。


●(p208 L12)を読んで。


独我論が論点先取り的に"私"を特別視しているみたいではないか!ようし、私が居ることを忘れた上で仮説を用意して、そこから私が居るという条件から事前確率と事後確率比べてやる。三浦さんの議論に沿うとこうなるかな。


仮説A 意識は一つだけ発生している
仮説B 意識はたくさん発生している


場合α 私は必ず発生することになっている
場合β 私が発生するかどうかはわからない


証拠E 私は発生している


場合αではAともBとも言えない。場合β(こっちだという強い直感の元で今までものを言ってた)では、Bの可能性が高い…

まじか…βはこの意識を特権化することに役立つと思ってたのに(直感で)。。上の脳の話と合わせると、他者に意識がある可能性が高いということか。。えー、まじか。。
他者に意識がありそうってことと、場合α私は必ず発生することになっている、だったら前者の方がまだありそうだよな。。
他者に意識があるのか…まじか…
それってどういう状態なの?
森に他にも人がいるっていうのは物理的状態で、わかりやすい。他者に意識がある、中の人がいるって何、どういう意味なのか。有機物の代謝と脳内の電気信号群と表情や言葉や熱や感触の向こうにある、何?概念みたいなもの?犬の集合?上に挙げた物質や動きその物?そうではないよね。それらがあるのは仮説ABとか場合αβとか言う前からわかってることだ。非物質的な何かであることは確かなのかな。集まったものの呼称とかでもないよね。それは別の名前で呼ぶことも、呼ばないこともできるし。他者の脳に連動して何かが発生してる。それは…私のようなもの?私のようなものが他者にも居る?うーん、なんだか元々当たり前のようなのに、受け入れがたい。。論理で存在を予想できてしまうようなそれって。何なんだ。もっとぼんやりしたものと思ってた。もちろんそれらの意識と私の意識は違うだろう。私に認識される方法というか私との関係において、というか私=私、私≠他者(の意識)というかんじなだけなのか。そう、他者の意識とは何かというより、ここで導き出される他者の意識とは何か、という。
この論証における仮説Bは、詳しく考えてみると…。意識発生の現場がたくさんある。そしてこの私さん、あの私さん、その私さんなどが裏に発生可能な仮想の存在として控えている(簡略化のためそう考えるとする)。そして、当たった私さんが現出する。
うーん、やはり私のようなものなのかな、他者の意識って。。

でもでも、私が存在しないんじゃなくて、存在したのはなぜかっていう謎はまだ残ってるよね!

私が存在する不思議の解決としての人間原理になぜ納得できないか


私はなぜ存在するのか、という問いは、私が存在して初めて発することができる。だからその不思議は不思議ではない。
これが私の存在に関する人間原理だったか。記憶が不確かというかおそらくちゃんと理解していないが、上の文に対しての納得できない感をよく見てみようと思う。ここではそれを存在人間原理とする。


普通の(?)人間原理と比較してみる。


〈1〉私の存在に関する人間原理
A)私が存在している場合
私が存在していて、問いが発せられている
B)私が存在していない場合
この意識が存在せず、問いもない


この二つの可能的状態がある。
そして今、問いが発せられたという条件(条件付き確率みたいな)がある。その舞台はAでしかありえない。

(まず条件として「問いが発せられた」ということを置くのがなんか違和感なのですよ。私は私が存在していることを常々認識していて、それとその問いは融合しているというか、その問いを「思いつく」みたいなものじゃない気がする。。)


〈2〉普通の人間原理(例えば広いほう)
A)ここがファインチューニング宇宙な場合
意識が存在していて、問いが発せられている可能性がある
B)ここが非ファインチューニング宇宙な場合
意識が存在せず、問いもない


この二つの可能的状態がある。
そして今、問い(「なぜこの宇宙はファインチューニングされているのか?」)が発せられたという条件がある。つまり知的生命がいる。その舞台はAでしかありえない。

(こっちは納得できるんだよね。こっちの問いは「ある時点で思いつかれた」感がある、という違いは一つあるよね。それが意味を持つのかはまだわからないけれど。思いつかれた感、大小の違いなのかもしれないけど。)



〈2〉に関しては最初の条件として「問いが発せられた」を置くのが妥当な気がする。
〈1〉に関しては、うーん…


ちなみに〈1〉の背景が〈2〉ではあり得ない。
意識は複雑な有機化合物の上に発生するというのは自明ではないから。〈1〉の文脈では、意識は真空中にも非ファインチューニング宇宙にも発生し得る。


確率のような考え方をしているかんじだが、〈1〉に確率の考え方を適用するのは正しいのだろうか?
でもそれを言えば、存在の奇跡にも確率で考えている節があり、変である。
奇跡という考えは「私が存在する理由はわからないが、私が存在するなどどはとても起こりそうもないことで、起こっているのはとても驚きだ」というようなことだと思う。存在人間原理よりそちらのほうが好きなのだが、「起こりそうもないこと」だと判断するとき、確率のように考えていて、しかも変な確率の使い方をしている気がする。起こらない場合のほうがずっと多く想定されるから、奇跡。しかし、この問題において場合を数えるというのは正しい態度なのか。それらは同様に確からしいのか。否、私が存在する理由はさっぱりわからないのだから、状態aにおいても私は存在したかもしれなかったししなかったかもしれない。状態bにおいてもそう。状態cにおいても。というふうに、奇跡ともなんとも言えないのではないか。
否、それか、意識が意識として回り得る環境とそうでない環境があるだろうか。もし今のこの私の意識が次の瞬間宇宙の彼方の寂しい真空中にあったとすれば、それは今想像するような連続的様相をなすだろうか?


最初の、存在人間原理〈1〉と普通の人間原理〈2〉の話に戻る。
〈2〉においては、「問いが発せられた」を前提条件とすることに納得できる。Bのような宇宙もどこかにある。しかし「ここ」がAの宇宙であることは必然である。
〈1〉においては、「問いが発せられた」を前提条件とすることに違和感がある。Bの場合は?と聞きたくなる。私が居なくて問いが発せられないことも考えられたよね?と。どうしてそちらでなかったのか。
実在する可能世界で考えてみよう。それで〈2〉と同じ構図になるはずである。
A)私が存在して問いが発せられる可能世界
B)私が存在せず問いが発せられない可能世界
問い、にまだ違和感があるのでこうしてみる。
A)私が存在してそれを内側から認識する可能世界
B)内側から認識されない可能世界
あれ、、私が存在すればABとも生じ、私が存在しなればABとも生じない気がする。。


〈2〉と〈1〉。「ここ」と「私」、は大きく違うのかも?
〈2〉においては、「ここ」でないBに対してはそんな場所もあるよねというかんじだ。〈1〉において、「私」のないBは別の場所のようなものではない。
「ここ」と「あそこ」は同時に認識できる。私が今いる場所が「ここ」で、かつて・今後いるかもしれないしいないかもしれない場所が「あそこ」だ。
「私」はどうか。「私がいる」と「私がいない」。(単語ひとつで表せないな。「他人」でもないしね。)「ここ」と「あそこ」に似せて、時間経過の中での変化を考えてみる。
「私が生まれていない」「私が生きている」「私が死んだあとの状態である」。
一つ目と、二つ目・三つ目の間に大きな断絶があるかんじがする。一つ目はまだお腹の中にもいない状態とする。二つ目三つ目では私について話せるような状態。一つ目は、私、という語が何を意味するかわからない。
もしかして今私、個人の人格みたいなものを無意識に思い浮かべてしまっている? そうではないと思いたい。。
とにかく、一つ目の状態は「あそこ」みたいなものではない。そんな分かりやすい場所ではない。なにそれ?というようなものだ。


問い方を変えてみる。
「この問いを発する意識[=私]が生じたのはなぜか?」
なんだか自己言及でこわい感じがするが…
この問いの場合も、まず「問われた」ということを前提条件にできるだろうか。うーん、他の問いでも問われたのは問いが書かれた時点なのだから、同じか?


何にしろ。
普通の〈2〉では「問いが生じた」ことを前提条件にしていいけれど、存在の〈1〉ではそうしては変な気がする。
それはなぜか。なぜなのか。。


〈2〉は問いを発する意識を部品として含む宇宙の仕組みの話だ。問いと、意識と、宇宙の諸々。
〈1〉は問いを発した意識そのものについての話だ。それだけについての話だ。他のものは関係ない。問いと、意識。


〈1〉の考えそのものが自己言及っぽいのでは?
「私」を「文」に、「問いが発せられる、自己認識が行われる」を「書かれる」に置き換えて、こうしてみる。
「この文は書かれた」
「なぜこの文は書かれたか?」
…要考察


〈2〉において、「問い」がスタートであることが必然か考える。(〈1〉で自己認識、あるいはもっと薄いものだけでも良いか知りたいので。)
泡宇宙がたくさんある世界。泡宇宙の内のある一つのファインチューニング宇宙でまず問いが発せられたとする。(私たちがそれをやっているとしておこう。)ここはなぜファインチューニングなのか。そして答えが出る。
次に私たちはこう想定してみるとする。ここ以外のどこかの泡宇宙に知的生命体がいるとする。そいつらは充分に頭が良いが、「なぜ自分たちのここはファインチューニングなのか」という問いには興味を持たないような生物で、この問いを思いついたことのある個体はいない。そんな想定。さて、そいつらの宇宙はファインチューニングだろうか?ファインチューニングだ。


問いは発せられなくてもよい。ただし少なくとも、当該意識の外から考えた場合。
この但し書きがついてしまうな。〈1〉の場合に応用できない。


当該意識の外、ということで状況をもう1パターン考えてみよう。例えば私が「ここはなぜファインチューニングか」と問うて、答えにたどりついた。これこれこういう理由で必然である、と。例えば重力定数の値が必然であるということは私の知識の一つになる。そしてその問いを問うたことのない友人Pに私がこう言う。「重力定数がこの値なのは必然なんだぜ」。理由は言わない。友人Pは私のことを賢いやつだと思って信じているので、その値が必然であるということは彼の知識の一つになる。
さて、友人Pは問いを発していない。彼はなぜこの知識を得ることができたか? まず、彼が知的生命であることは必要だった。なんらかの知識を得るということができる為の条件である。そして、私によって、同じ場所に棲む知的生命として観測されることが必要だった。。うーん…


このパターンを考えてみて思いついた。
別の泡宇宙のパターンでもその宇宙人に答えを知らせることも考えうる。地球の科学がすごく発達して、別の泡宇宙を観察したり交信できるようになったとする。問いを思いついていないだけの賢い彼らに、地球人は伝える。「あなたたちのところの重力定数の値は必然です」。理由は言わない。
これも友人Pの場合と同じに、彼らの知識になりうるだろう。


でもこれらは別の意識が必要なので、やはり〈1〉には応用できない。〈1〉は原理的に一つの意識しか前提できない。
や、待てよ。充分に高度な有機化合物、少なくとも哲学的ゾンビであるものとしての他人なら、〈1〉の話に組み込んでもよいのでは。しかし役に立つかな。
例えば友人Pがある発言をしたとして、場合分けする。彼に中の人がいる場合、この発言はこういう意味だ。彼が哲ゾだった場合この発言はこういう意味だ。どちらかわからなくても、この一対から何かわかることがあるかもしれない。
しかし、彼に中の人がいるって、どういう想定なんだ?そう、もし何かいたとして、そう考えたとして、私と同質のものではあり得ない。
やはりだめだ。他人を組み込むのはやめよう。考える機構としての脳だけなら私にもあるもの。


〈1〉の舞台に登場するのは、私、問い。それだけだ。あと私が他にも色々思考したらそれも組み込めるけれど。世界の事物は、私の存在とは関係ない。父や母や祖父母がいることや、彼らが結婚したことなどは、chiiが生まれた理由であるが、私が生じたこととは関係ない。
私、問い。この二つだけの世界。いったいどんな世界なんだ。むしろ問いは舞台上に必要なのか、問題を解くための役に立っているのか。


問いが発せられたならば私は居ます。そりゃそうだ。
(夕方宿題をしているなら今日学校で宿題が出たということだ。でも宿題が出たのは必然じゃない。)
ではこう問おう。なぜこの問いは発せられたのか?これではないか。
〈2〉においては、そのことに興味は行かない。不思議に思っているのは別のことだから。


なぜこの問いは発せられたのか?こう書き換えれば、もう舞台上に問いを乗せる必要はないのではないか。
さて、舞台上には私ひとりだ。私にわかることは只一つ。私が居るということ。さあ、私はなぜいるのでしょう。


知らんわ!

性的資源と愛の需要と供給からくる卑屈さ


Sと自称する人たちがいる。ここでは男性について。
いかにもいじめっこというかDQN然としていて、普段の会話などにおいても人をいじるのが好きなのだろうなというかんじの人もいる。


普通の性交で攻めるのが好きなだけなのをSだという言い方をする人もいる。(そういう人にはつい喧嘩腰になってしまう。)


そしてきっと、自分のような男に触れられて嬉しいのは被虐趣味な女だけだろうと思っている、卑屈な人がいると思う。
それがはっきり意識的であれ、無意識的であれ。その卑屈さから、通常のSM的プレイに入り、原因が卑屈さだと意識されていない場合も多そうだ。


そのような卑屈さに対応する女の卑屈さを考えてみる。
ほぼ全ての女に元からある性的資源のことを認識している女について、どういう卑屈さを持ち得るかというと。
自分に愛されて嬉しい男などいない、という卑屈さである。


男は性的資源を享受できる資格、容姿含めたスペックについて卑屈になる。
女は性的資源を皆持っているといえ、公開提供の意志を示すものは少ないのでそれに対する需要は十分にある。性的資源のやりとりについてはその限りである。欲する男>公開する女。男のほうが不利であり、自分のような者は得られないのではないかという卑屈さが生まれる。
しかしそれとは別の話で愛の市場に関しては女が不利である。恋愛欲の強い女は愛し愛されたい。男にその欲求は少ない。愛し愛されたい男<愛し愛されたい女。そして、自分に好かれて嬉しい男はいないという女の卑屈さが生まれる。
ちなみに女がほぼ須く性的資源を持っているということを知らない女に関しては、愛されない=性的に求められない、という考えを持つだろう。

エクリチュール元年

エクリチュール元年

エクリチュール元年

どんなことがどれくらいありそうか、なさそうか、子供はだんだん知って生きやすくなっていく。それでもまだ生きにくい状況にいる人は、自分自身はその起きやすさ起きにくさから逸脱してもいいのだと知る。

[本」三浦俊彦「戦争論理学」

戦争論理学 あの原爆投下を考える62問

戦争論理学 あの原爆投下を考える62問

問17にて私が理解したところ。
トルーマン
(原爆完成後実験)思ったよりすごい!ソ連参戦しなくても日本降伏させれるわ。
ポツダム会談)ソ連さん、参戦、ほんま頼みます。
ソ連参戦後)なに参戦しちゃってんの?!怒

え、なにこれ怖い。鬱病の人みたい…


問い52まで読んで、(ポツダム)(原爆完成)(ソ連参戦)という順番なのか?と思った。
それならまあちょっと恐いぐらいだな。


問い53
論理的議論をしていい文脈といけない文脈がある。書いてあるとおり、倫理の話がずばりそう。「どうして人を殺しちゃいけないの?」って言っていい文脈と言ったら怒られてしまう文脈がある。永井さんも、偉い人はそんな議論する立場に立ったらいけないと書いてた。


問い54らへんからの、被爆写真の話。
小中学校で散々見せられるグロ映像にも関わらず、冷静に論理的に考えられているぞ、私たちは!と思うことができるという分には、あのグロ映像は役立っているのかもしれないね。きっとちょうど、醜女を好きになった時の安心感のようなもの。近づきたくないホラーだと思う期間を乗り越えないといけないけどね。(ホラー以上の恐怖を現実で個人的に体験すればホラーの怖さは薄れると思う。それを体験しないですんでいる幸運な人にとっては、戦争教育によって得られるものは「ホラー恐い」のままかもね。)


感情と論理。目まぐるしい状況の変化について来られるほど進化のスピードは速くない。だから論理より感情を優先するのは得策でない。
しかし自分の行動を決めるとき感情は無視できないファクターであることは確かだ。非論理的だとわかっていても感情に従ったほうが満足度が高い場合がある。あるいは、論理の為に感情と戦ったりなだめすかしたりしないといけない時とか。
たとえば通りすがりのメンヘラビッチが処女のこととか考えた。 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたことで書いた、恋の中に居る女が処女を捨てるかどうかの判断。
あと、ダイエットをするときとかに。駅までの道での消費カロリーとか、ダイエット食品やスポーツジムの値段とか、家族がお菓子を買って来がちかとかと並んで、自分の感情(お菓子食べたい度合い、運動したくない度合い)も、作戦に組み入れないといけない重要な要素だ。


目標達成や満足度を上げるために、感情を作戦に組み込むということ。
他人の感情も自分の感情も、この世界を構成して原因結果の流れの中で重要な役割を果たす。
自分にも他の人間にも感情という阿呆な機能が付いていて、無視したら余計に暴れるから、うまく共存していくしかないのだな…


ちなみに、小中学生の時に戦争グロ映像を見せられた感想は「見たくない、戦争について話したり考えたりしたくない」だった。今後戦争が起こることへの恐怖ももちろんあったけれど、過去に起きた戦争の記録に触れることのほうが近いところにある恐怖だった。
将来の戦争だって天災みたいなもので、自分の行動によって止められる可能性なんて思いつかなかった。


今すぐ命の危険があることをしようとしている子供を、親は恐い顔や大きな声で叱って止めるべきだが、将来の戦争の可能性はそういうのじゃない。高いところから身を乗り出すのは危険だと、子供は後々自然に知るだろうが、どうしたら戦争にならないか考えることは、放っておいても自然にするようにはならないだろう。ましてやグロ映像を見せられて育てば余計に考えないようになるだろう。

常識が「ない/とらわれない」

「常識がない(知らない)」と「常識にとらわれない」では全然感じが違うな。
前者は非常識、後者は否常識ってかんじ。
「常識にとらわれない」は、常識から完全に解放されている訳じゃなくて、常識を知っていて、でもあえてそこから外れて行くことも恐れない、みたいなかんじ。
なので、元から常識なんていう要らぬ感覚が無くて、ただ思うままに振る舞ったり創出したりする自由で素敵な人を「常識がない」と呼びたくなるけれど、それだと違う意味になるのだなあ。

続・のぞき考

その前に書いたやつ→のぞき学原論 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと


最近、三浦俊彦さんがとても好きだ。本人と知り合いになれたらどんなに素敵だろうと思うけれど、なれないほうがよいかもしれない。
手の届かない種類の人のままだと、当然だが「失う」こともない。
氏の著作を読み切ってしまうまでは、少なくとも楽しくいられるだろう。
↓三浦さんの本の感想みたいなやつ(最近の分だけ)
久々に図書館楽しいと思った。kindleだけじゃなくて。 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
M色のS景 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
通りすがりのメンヘラビッチが処女のこととか考えた。 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
この部屋に友だちはいますか? - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
のぞき学原論 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
三浦俊彦「これは餡パンではない」感想 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

  • 著者と読者の関係とそれに似たもの

著者と読者の 一方通行=片想い=覗き 的在り方。
まあでも本は基本他人に読ませる為に書いているわけで、不特定多数に、思考を覗かれているというより曝しているわけだが。
しかし、著者は私を知らない。私が読んでいることを知らない。
それが一つの覗き的形を作ると言えないだろうか?
これはヤラセ盗撮AVの被視体と観賞者の間にも言える。芸能人とファンもそうだ。
芸能人とファンは知り合いではなく、基本的に相互ココミュニケーションはないので、上に書いた「失う」ということがない。嫌われる不安がない。
苦しい恋愛をするより芸能人のファンになったほうが賢いと言える面もある。

  • 相互コミュニケーションのない関係

窃視者は、ばれないという前提が崩れなければ被視体とも相互のコミュニケーションはない。(相手が知り合いでもその窃視行為の中では相互コミュニケーションはない。)
その為、嫌われる、失う、ということはない。
相互コミュニケーションに自信がなくても、又は、仲良くなったとしてもそこまで見せてもらえるほどになる自信がなくても、覗きは楽しめるのだ!

  • 片想いと覗きの比較

一方通行=片想い=覗き と書いたが、片想いの基本形は「一応知り合い(相互コミュニケーション希薄)」で、覗きの基本形は「見知らぬどうし」という違いがある。
(以下設定してみた基本形についての話。)
片想いは相互コミュニケーションが希薄なので、コミュニケーションによって嫌われるほどのやりとりもないだろう。
(容姿や雰囲気が無理、と思われる可能性はふつうにあるが。)
それでも、片想いは相互コミュニケーションをしようと思えば可能であるという状況が、覗きと違う点だ。
覗きはその前提において相互コミュニケーションを排している。
嫌われるかもしれないけれどうまくいく可能性もゼロではない、相互コミュニケーション可能な状況というのが片想いの中にいる人を苦しめている。芸能人のファンや本の読者や窃視者と違って。

  • 小説と盗撮AVの比較

三浦俊彦さんの小説でこんな場面がある。

主人公が「誰かが美術展を見てまわる自分をどこかから覗いているのではないか」という気分を抱き、そのあと次のように書かれる。

居るのではないか、黒い観察者が。観客が。真っ赤な読者が。覗き屋が。
三浦俊彦「これは餡パンではない」河出書房新社 p95より)

三浦さんもちゃんと読者を覗き屋のモチーフで捉えておるな。
まあ、ここでは作者への覗きではなく、登場人物への覗きだが。登場人物は基本物語の外の世界の存在など知らないわけで、作者と違って自分を他人にさらしている意識など皆無なはずだ。
(物語を読んでいて、登場人物が読者---物語の外を意識する。不覚にもはっとしてしまった。「ソフィーの世界」的だけど、また少し違う感覚。最初からもうメタ丸出しの作品だとはっとしないけれど、そうじゃないからね。)

盗撮AVにおける被視体、撮影者、観賞者。小説における登場人物、作者、読者。という対応が成り立つ。小説に対応する盗撮はヤラセではなく本物盗撮だ。被視体も登場人物も、この日常の外にそれを見ている視点があるなどとは思いもしない。もし思ったら、それは「メタ的」であるとされる。