Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

私が存在する不思議の解決としての人間原理になぜ納得できないか


私はなぜ存在するのか、という問いは、私が存在して初めて発することができる。だからその不思議は不思議ではない。
これが私の存在に関する人間原理だったか。記憶が不確かというかおそらくちゃんと理解していないが、上の文に対しての納得できない感をよく見てみようと思う。ここではそれを存在人間原理とする。


普通の(?)人間原理と比較してみる。


〈1〉私の存在に関する人間原理
A)私が存在している場合
私が存在していて、問いが発せられている
B)私が存在していない場合
この意識が存在せず、問いもない


この二つの可能的状態がある。
そして今、問いが発せられたという条件(条件付き確率みたいな)がある。その舞台はAでしかありえない。

(まず条件として「問いが発せられた」ということを置くのがなんか違和感なのですよ。私は私が存在していることを常々認識していて、それとその問いは融合しているというか、その問いを「思いつく」みたいなものじゃない気がする。。)


〈2〉普通の人間原理(例えば広いほう)
A)ここがファインチューニング宇宙な場合
意識が存在していて、問いが発せられている可能性がある
B)ここが非ファインチューニング宇宙な場合
意識が存在せず、問いもない


この二つの可能的状態がある。
そして今、問い(「なぜこの宇宙はファインチューニングされているのか?」)が発せられたという条件がある。つまり知的生命がいる。その舞台はAでしかありえない。

(こっちは納得できるんだよね。こっちの問いは「ある時点で思いつかれた」感がある、という違いは一つあるよね。それが意味を持つのかはまだわからないけれど。思いつかれた感、大小の違いなのかもしれないけど。)



〈2〉に関しては最初の条件として「問いが発せられた」を置くのが妥当な気がする。
〈1〉に関しては、うーん…


ちなみに〈1〉の背景が〈2〉ではあり得ない。
意識は複雑な有機化合物の上に発生するというのは自明ではないから。〈1〉の文脈では、意識は真空中にも非ファインチューニング宇宙にも発生し得る。


確率のような考え方をしているかんじだが、〈1〉に確率の考え方を適用するのは正しいのだろうか?
でもそれを言えば、存在の奇跡にも確率で考えている節があり、変である。
奇跡という考えは「私が存在する理由はわからないが、私が存在するなどどはとても起こりそうもないことで、起こっているのはとても驚きだ」というようなことだと思う。存在人間原理よりそちらのほうが好きなのだが、「起こりそうもないこと」だと判断するとき、確率のように考えていて、しかも変な確率の使い方をしている気がする。起こらない場合のほうがずっと多く想定されるから、奇跡。しかし、この問題において場合を数えるというのは正しい態度なのか。それらは同様に確からしいのか。否、私が存在する理由はさっぱりわからないのだから、状態aにおいても私は存在したかもしれなかったししなかったかもしれない。状態bにおいてもそう。状態cにおいても。というふうに、奇跡ともなんとも言えないのではないか。
否、それか、意識が意識として回り得る環境とそうでない環境があるだろうか。もし今のこの私の意識が次の瞬間宇宙の彼方の寂しい真空中にあったとすれば、それは今想像するような連続的様相をなすだろうか?


最初の、存在人間原理〈1〉と普通の人間原理〈2〉の話に戻る。
〈2〉においては、「問いが発せられた」を前提条件とすることに納得できる。Bのような宇宙もどこかにある。しかし「ここ」がAの宇宙であることは必然である。
〈1〉においては、「問いが発せられた」を前提条件とすることに違和感がある。Bの場合は?と聞きたくなる。私が居なくて問いが発せられないことも考えられたよね?と。どうしてそちらでなかったのか。
実在する可能世界で考えてみよう。それで〈2〉と同じ構図になるはずである。
A)私が存在して問いが発せられる可能世界
B)私が存在せず問いが発せられない可能世界
問い、にまだ違和感があるのでこうしてみる。
A)私が存在してそれを内側から認識する可能世界
B)内側から認識されない可能世界
あれ、、私が存在すればABとも生じ、私が存在しなればABとも生じない気がする。。


〈2〉と〈1〉。「ここ」と「私」、は大きく違うのかも?
〈2〉においては、「ここ」でないBに対してはそんな場所もあるよねというかんじだ。〈1〉において、「私」のないBは別の場所のようなものではない。
「ここ」と「あそこ」は同時に認識できる。私が今いる場所が「ここ」で、かつて・今後いるかもしれないしいないかもしれない場所が「あそこ」だ。
「私」はどうか。「私がいる」と「私がいない」。(単語ひとつで表せないな。「他人」でもないしね。)「ここ」と「あそこ」に似せて、時間経過の中での変化を考えてみる。
「私が生まれていない」「私が生きている」「私が死んだあとの状態である」。
一つ目と、二つ目・三つ目の間に大きな断絶があるかんじがする。一つ目はまだお腹の中にもいない状態とする。二つ目三つ目では私について話せるような状態。一つ目は、私、という語が何を意味するかわからない。
もしかして今私、個人の人格みたいなものを無意識に思い浮かべてしまっている? そうではないと思いたい。。
とにかく、一つ目の状態は「あそこ」みたいなものではない。そんな分かりやすい場所ではない。なにそれ?というようなものだ。


問い方を変えてみる。
「この問いを発する意識[=私]が生じたのはなぜか?」
なんだか自己言及でこわい感じがするが…
この問いの場合も、まず「問われた」ということを前提条件にできるだろうか。うーん、他の問いでも問われたのは問いが書かれた時点なのだから、同じか?


何にしろ。
普通の〈2〉では「問いが生じた」ことを前提条件にしていいけれど、存在の〈1〉ではそうしては変な気がする。
それはなぜか。なぜなのか。。


〈2〉は問いを発する意識を部品として含む宇宙の仕組みの話だ。問いと、意識と、宇宙の諸々。
〈1〉は問いを発した意識そのものについての話だ。それだけについての話だ。他のものは関係ない。問いと、意識。


〈1〉の考えそのものが自己言及っぽいのでは?
「私」を「文」に、「問いが発せられる、自己認識が行われる」を「書かれる」に置き換えて、こうしてみる。
「この文は書かれた」
「なぜこの文は書かれたか?」
…要考察


〈2〉において、「問い」がスタートであることが必然か考える。(〈1〉で自己認識、あるいはもっと薄いものだけでも良いか知りたいので。)
泡宇宙がたくさんある世界。泡宇宙の内のある一つのファインチューニング宇宙でまず問いが発せられたとする。(私たちがそれをやっているとしておこう。)ここはなぜファインチューニングなのか。そして答えが出る。
次に私たちはこう想定してみるとする。ここ以外のどこかの泡宇宙に知的生命体がいるとする。そいつらは充分に頭が良いが、「なぜ自分たちのここはファインチューニングなのか」という問いには興味を持たないような生物で、この問いを思いついたことのある個体はいない。そんな想定。さて、そいつらの宇宙はファインチューニングだろうか?ファインチューニングだ。


問いは発せられなくてもよい。ただし少なくとも、当該意識の外から考えた場合。
この但し書きがついてしまうな。〈1〉の場合に応用できない。


当該意識の外、ということで状況をもう1パターン考えてみよう。例えば私が「ここはなぜファインチューニングか」と問うて、答えにたどりついた。これこれこういう理由で必然である、と。例えば重力定数の値が必然であるということは私の知識の一つになる。そしてその問いを問うたことのない友人Pに私がこう言う。「重力定数がこの値なのは必然なんだぜ」。理由は言わない。友人Pは私のことを賢いやつだと思って信じているので、その値が必然であるということは彼の知識の一つになる。
さて、友人Pは問いを発していない。彼はなぜこの知識を得ることができたか? まず、彼が知的生命であることは必要だった。なんらかの知識を得るということができる為の条件である。そして、私によって、同じ場所に棲む知的生命として観測されることが必要だった。。うーん…


このパターンを考えてみて思いついた。
別の泡宇宙のパターンでもその宇宙人に答えを知らせることも考えうる。地球の科学がすごく発達して、別の泡宇宙を観察したり交信できるようになったとする。問いを思いついていないだけの賢い彼らに、地球人は伝える。「あなたたちのところの重力定数の値は必然です」。理由は言わない。
これも友人Pの場合と同じに、彼らの知識になりうるだろう。


でもこれらは別の意識が必要なので、やはり〈1〉には応用できない。〈1〉は原理的に一つの意識しか前提できない。
や、待てよ。充分に高度な有機化合物、少なくとも哲学的ゾンビであるものとしての他人なら、〈1〉の話に組み込んでもよいのでは。しかし役に立つかな。
例えば友人Pがある発言をしたとして、場合分けする。彼に中の人がいる場合、この発言はこういう意味だ。彼が哲ゾだった場合この発言はこういう意味だ。どちらかわからなくても、この一対から何かわかることがあるかもしれない。
しかし、彼に中の人がいるって、どういう想定なんだ?そう、もし何かいたとして、そう考えたとして、私と同質のものではあり得ない。
やはりだめだ。他人を組み込むのはやめよう。考える機構としての脳だけなら私にもあるもの。


〈1〉の舞台に登場するのは、私、問い。それだけだ。あと私が他にも色々思考したらそれも組み込めるけれど。世界の事物は、私の存在とは関係ない。父や母や祖父母がいることや、彼らが結婚したことなどは、chiiが生まれた理由であるが、私が生じたこととは関係ない。
私、問い。この二つだけの世界。いったいどんな世界なんだ。むしろ問いは舞台上に必要なのか、問題を解くための役に立っているのか。


問いが発せられたならば私は居ます。そりゃそうだ。
(夕方宿題をしているなら今日学校で宿題が出たということだ。でも宿題が出たのは必然じゃない。)
ではこう問おう。なぜこの問いは発せられたのか?これではないか。
〈2〉においては、そのことに興味は行かない。不思議に思っているのは別のことだから。


なぜこの問いは発せられたのか?こう書き換えれば、もう舞台上に問いを乗せる必要はないのではないか。
さて、舞台上には私ひとりだ。私にわかることは只一つ。私が居るということ。さあ、私はなぜいるのでしょう。


知らんわ!