Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

誰かが周りと上手くやっていきにくい性質を持つ場合、どちらがどちらに合わせるべきとされるか


意志によって変えられる可能性がゼロでない場合についてのことである。
笑いながら人をたたく癖とか、怒りんぼう、泣き虫、恥ずかしがり、根気がない、等々度合いは様々であるがよくあることや、メンタルの病に由来することまで。


上手くやっていけない度合いはそこそこあると仮定しよう。
上のような言葉はたいてい本人が悪いという意味も含むと思うが、あらゆる性質は本来よくもわるくもないだろう。それが他人と関わる段になったとき、上手くやりやすいかやりにくいかということしかない。
そして、度合いが平均からはずれている場合にその人は泣き虫と言われたり怒りんぼうと言われたりするだろうが、一人一人にとって自然に振る舞った結果がその人の泣き具合や怒り具合なのであるから、だいたいの人が普通にやっていて今のようになるのと同じように、泣き虫や怒りんぼうの人にとってもそうなのだ。
もしそういう平均から外れている人が自らのことを是認しているのであればその人はこう思うだろう。「普通にしていると周りと合わないことがある」と。「自分は普通(=皆と同じ)にできない」とは思わない。


そして、平均から外れている者の人数比が少ない場合、又、周りが被る迷惑の度合いが大きい場合に、その平均から外れている者が直すべきとされるほうに傾くだろう。
その泣き虫なり怒りんぼうなりが、直せる見込みが少ない場合、すなわち何かそうなってしまうという医学的裏付けがある場合、医者が直せないと言っている場合、一般的に直せないものとされている場合、周りが合わせることがむしろ善いこと、そうすべきこととされるだろう。