Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

三浦俊彦「これは餡パンではない」感想

  • 表題作「これは餡パンではない」

うんことタナトス。みたいな。
三浦俊彦さんは相変わらずうんこが好きだな。そしてそんな三浦さんが好き。

  • 後半に収録の「枯野をただようオブジェ」

この記事の中の人は俳句に関して、古今のすごい人についてほとほと不勉強な只のへたっぴ実作者です。戯れ言と思って読んでくださいませ。


旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉


{夢の中で私が/夢が/私が、夢である処の}枯野をかけ廻る
このどれか、という話なのだが、私は{夢が}としか思ったことがなかった。それ以外なんて思いつきもせんかったわ。

志半ば病んでしまい、これから実現するはずだった夢が行き場をなくし枯野をかけめぐっているかのようだ。なお想いは消えず、狂おしくて。芭蕉の胸の中の嵐。
学校の先生もそんな感じで言っていたような気がするが。
とても強い想いである「夢」が、それ単体でさながら生き霊のように現実の枯野をかけめぐっている。行き場のない悔しさに。芭蕉がそう感じている。
初めてこの句を見たとき(中学生の時?)そうイメージした。
病に伏してろくに動かない芭蕉自身の体と、それに反して、否、だからこそ狂おしく吹き荒れる嵐のような心中。その必然の対比。


「夢は」の「は」が多義的なことより、「夢」が多義的なことの方がややこしい要因だと思う。将来の夢と、寝て見る夢と。
先ほどの三つは、芭蕉の状況から考えれば
{(寝て見る)夢の中で私が/(将来の)夢が/私が、(寝て見るor将来の)夢である処の}
となるだろう。三つ目は両方考えうる。
一つ目は「私が思い描く将来の夢の道筋の中で私は行き場をなくしてかけめぐる」と考えれば(将来の)のほうで考えることも可能か。


「夢が枯野をかけめぐっている」と取ればこれは「擬人化」だ。しかしそれは「夢」=「私」と見立てた擬人化ではなくて、「夢」が枯野をぐるぐるするのを「かけめぐる」という人間のような言い方で表現する、という意味の擬人化だ。


っていうか、一句の中に主観的視点を感じさせないようにするのはよくある基本戦略なのでは。「私」とか「吾」という言葉を入れるのは裏技的だし(一句が短いからね)、俳句は短さゆえにできるだけ要らないものは排されて、主観的視点も敢えて欲しいとき以外基本排されるのでは。
まあでも「旅に病で」の主語は明らかに「私」なんで、それにも関わらず中七下五では主観的視点を排したんだ!ということかな?

のぞき学原論

のぞき学原論―-The Principles of Peepology-

のぞき学原論―-The Principles of Peepology-

うんことか消化器官すきだけれど、さすがにこれだけうんこのことばかり読んでたらちょっと食傷。しかし面白い。むしろそこが良い。
あと、この本をお菓子とかつまみながら読んでしまうのは、変なのか普通なのか。

  • コミュニケーションの方向と片想い

当事者の一方が他方を、(少なくとも表面上)気づかれぬように見つめつづけるとすれば、情報・接触の一方性が蓄積され、覗きは不均衡・低エントロピーの生産装置として作用することとなる。
(p50より)

一方性。「片想い」を考えるとき、覗き的なものはとても参考になるのではないか。
片想いについて、考えたい項目:他人の心(読めない、存在する確証もないもの)と片想い。


p60辺りに芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」を取り上げている。死の床で寂寥の中、旅先の隣家に思いを馳せている句、なのか。恥ずかしながら知らなかった。
寂しさと一方性。留守番していて寂しいとき(人生の内のかなりの時間だ。)、薄い壁や天井の向こうから隣家の物音や猫の足音が聞こえる。あるいは表を車が走る音が聞こえる。それで随分寂しさが紛れる。
コミュニケーションに飢えている人は悪意さえありがたいだろう、と前思った。それだけではなく、近くに生き物が存在するということだけでもありがたいだろう。「片想い」でも。
(片想い的状況は普通の狭義の「片想い」はもちろんのこと、交際中の想いの不均衡や、また友情や家族愛においての片想い、そして見知らぬ生き物同士の意識の方向としても存在するな。)

  • 性的に美しいのは女である

男性誌の女性ヌードグラビア並に女性誌に男性ヌードグラビアを載せたところ売り上げが落ちてしまった、というアメリカでのエピソード
(p141より)

単純に「性的に美しいのは女性」であるからだと思う。男性の美しさは、世界の中の様々なものと同列な美しさだ。雨粒や稜線、建造物やしなやかな動物の動き、あるいは子供や老人などの美しさと同じ。

女性向けエロコンテンツを好む男性より、男性向けエロコンテンツを好む女性のほうがずっと多くいると感じる。

愛でることを楽しむ男性と愛でられることを楽しむ女性という構図が現実の色々なところにある。(主に恋仲の男女において。)
どちらが楽しんでいるのも「女性の美しさ」だと思う。
(同じ著者の「下半身の論理学」の処女問題において、女性が求愛を受け入れるのも受け入れないのも、女性としての美しさを楽しむという意味では同じかもしれない。)
「下半身の論理学」の感想→通りすがりのメンヘラビッチが処女のこととか考えた。 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

普通の性的コンテンツにおいて、女性の美しさがまずありきだ。それだけでも成り立つし、男性がそれを愛でて引き立ててもよい。

それにつけても腐女子と呼ばれる人たちの頭の中はどうなっているのか。女の子不在では何も始まらないではないか。
と考えて思いついた。女性の美しさがあれば、物語中の男性はそれを愛でざるをえない。本人の魅力などは小道具でしかない、他を「愛でる者」、語り手的存在に堕ちなければならない。
腐女子の人たちは、語り手に堕ちてしまわない主役として、男性を観賞したいのではないか。そのためには女性はいてはならないのだ。

そういう腐女子の人たちは例外として、性的な文脈で、(私の独断と偏見による仮説では)
男女が異性の体に魅力を感じるのではない。人間が女性の体に魅力を感じるのだ。
女性の体が好きな男性より男性の体が好きな女性が少ないのは性欲の違いによるのではない。魅力的なのが女性だからだ。そして、女性は自分自身が女性であるという点で、元から満たされている。それで見かけ上、性欲の違いがあるように見えるのだ。

女性は(平均すれば)、体力でも知力でも男性に勝てないけれど、美しいものとして生まれたことーーー女性として生まれたことを十分に幸運に思ってよいと思う。

  • 読んでて思いついたことたち

ところで魔法少女物とかで、心は子供・体は大人ってよくあるけど萌えるよね。


うっかり無防備としてのチラリズム。(と、合意の上でわざとそれに似た状況を作ることとかも。)無垢なままのエロスを観賞するには覗き的状況が不可欠?


作中で男女共同参画とか呼ばれる女性盗撮者やヤラセの被視体である協力女性の、男性の欲望への寄り添いみたいなもの。
押見修造「ぼくは麻理のなか」のことを思った。

本物盗撮でわかるとおり、小刻みに流しながら排便する女がきわめて多いのが現実
(p241より)

うそだろ。そんなことしたら今回の排便で出たうんこの全貌を自分で確認できなくなってしまうじゃないか。快腸快腸と満足したり、水分が足りないなとか反省したりできなくなるじゃないか。
それかみんな、まとめて流したら詰まるほどの大量のうんこを一回でするのか?あるいは公衆便所で周りの人に音を聞かれるのが恥ずかしくて水音でごまかすのか。そんなにいつも音出るのか。


羞恥心というものがあるおかげで存在する幸福が多分いくつかある。
すべての物事が均一に見えてしまうのは救いであると同時に、そう思わなければならない状況に陥ってしまった嘆くべき不運でもあるか。。

Occultic;Nine-オカルティック・ナイン-感想

アニメ「Occultic;Nine」7話ぐらいまでみた。
科学の中には入っていないが、確固として存在する、私、というものに焦点を当てるのは、万人が共感できる「オカルト」として正しいと思う。体の生き死にと、私、の存在非存在を別個に描くことによってあるいは通常の説明言葉では言い表せないものを物語によって言いおおせている?
(ほら、説明文だとこうやって「万人が共感」とか言っちゃってだめでしょ。)
私、を描いていてこれも歯の話である川上未映子の「わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)」を思い出して面白い。まあこちらは永井均さんの影響を受けているという種明かしじみた背景があるらしいが。
(そしてアニメのほうでは歯の重要性は作中作の同人誌の話の中にしか今のところ出てこないが。)

アニメ「響け!ユーフォニアム2」9話を見て思ったこと

親子関係とは扶養と隷属の一対の義務である。それは子供が産まれたときに否応なく生じる。
社会規範の圧力がなければその構図はより顕著に現れるのではないか。親は子供に暴力を振るってもいい。
と、思ったが、社会規範がなければ親が子を扶養する義務はなくなる。飢え死にさせてもよい。親は子を好きなようにしていい。それが現実で現れている場面が妊娠中絶であろう。
扶養と隷属の関係というのは、親が社会規範の中で子を扶養する時に生じるのか。
そして子は本当に好きなことをするには自分で生きて行けるようになる必要がある。それまでは親の元にいて、庇護されねば生きられない。そしてその為には親に従わねばならない。子に関しては親に社会規範が働いていようがいまいが同じである。


アニメ「響け!ユーフォニアム2」9話で、主人公姉妹の家とあすか先輩の家の親子関係が出てくる。
主人公の父親が主人公の姉にこういう意味のことを言う。「好きなことをしたいなら家を出て自分で稼いでしろ」と。そして姉のこれまでの親に従ってきた態度。これこそ親子という扶養と隷属の関係を示している。そしてその相互の義務に従いながらでも姉のように苦しむ者もいるし主人公のように上手くやるものもいる。自然に上手くできてしまう後者が、前者に不可解さを感じ批判する。この主人公のようにこれももっともな態度である。父、姉、主人公、どの態度ももっともである。
そしてあすか先輩は親に対して逃れられない縁、恩を返す義務を感じている。しかしそれは養われている、世話されている為ではなく、血縁の為だ。そしてそこからは一生逃れられないと感じている。なぜだろうか。親を突き放せない自分への言い訳だろうか。法律上、相互扶助の義務が血縁から生じるからだろうか。それとも血縁への超自然的な妄信だろうか、とてもよくあるところの。


そして、家族が血縁や扶養義務の為に愛し合ったり、また逆にその為に憎みあうというのはおかしな話で、それらの中にいて、尚、とか、且つとか、きっかけにして、とかで、愛し合ったり憎みあったりするのだ。
家族・血縁・扶養義務、というのはグループの形態。そこに生じる感情が愛であろうと憎しみであろうと無関心であろうと、どこにも必然性も強制力もない。

この部屋に友だちはいますか?

クライマックスの一つ前の展開がとても好きだ。

通りすがりのメンヘラビッチが処女のこととか考えた。

下半身の論理学

下半身の論理学

処女厨を巡る議論を分析哲学的に考えてみた、というかんじの本です。
これを読んで思いついたことを書きました。
本と同じく、ここで言う
「処女」は、性交したことがないまま結婚するか、当該結婚の相手だけと性交して結婚するか、あるいはまだその可能性がある女。
「処女廚」はその処女と結婚したい男。

  • 女の分類(処女あるいは非処女への道)

処女にも非処女にもいろんなタイプが居るだろう。ここでは処女あるいは非処女になる過程によって分類してみよう。処女はこういう人だ、非処女はこういう人だと言うより、このタイプの処女はこう、またこのタイプの非処女は…という話から始めた方がやりやすいのではないか。
その人数の割合はともかく…その割合がわかれば処女非処女のだいたいの傾向として処女全体・非処女全体の議論にも使えるだろう。
「→」の先は事故とか無ければだいたいこうなるだろうという意味。


(1)エロいことや性交に関心を持つか
a.持たない…(3)へ
b.好ましいこととして持つ…(2)へ
c.忌むべきこととして持つ→処女

(2)処女を守る理由があるか
ー病気・妊娠のリスクの回避、取っておいた方が楽しいと思う、等
d.ある→処女
e.ない…(3)へ

(3)性交したがっている男に声をかけられる機会があるか
ー女が多すぎない環境、又は女が多いが比較的魅力的
f.ある→非処女(最初に声をかけてきたやつと結婚したら処女だが。)
g.ない…(4)へ

(4)自分から男に声をかけるか
h.かける→非処女(f.の括弧と同じ)
i.かけない→処女(恋をしないってこと?)


[たどったチャート…呼び方]で書くと、
(※ここで「美人」は"見た目と性格が総合的に魅力的"の略。)
a.f.…性に興味なし、環境又は魅力による非処女
a.g.h.…性に興味なし、否美人、恋する非処女
a.g.i.…性に興味なし、否美人、恋しない処女
b.d.…敢えての処女
b.e.f.…環境又は魅力による非処女
b.e.g.h.…否美人、恋する非処女
b.e.g.i.…否美人、恋しない処女
c.…性嫌悪処女


性に興味がない人と、性にプラスの興味を持ち特に処女を守らない人は、たどり方が同じになったな。


処女だけ、重要と思えてきた所を分けて、そうでない所を約めた。各項目が混ざっている人が普通かもだが。
 ※( )内は略称
(リ)敢えての処女-リスク回避…病気や妊娠をさける
(楽)敢えての処女-快楽…取っておいた方が楽しめるから
(戦)敢えての処女-戦略…男が処女厨であることを知っていて結婚戦略にする
(偶)偶然処女…少なくとも自分で行動するほどは男に興味ない
(嫌)性嫌悪処女


それぞれいくつかの項目で評価してみたら面白いと思う。非処女も同じように。
着衣の容姿、脱衣の容姿、着衣の性格、脱衣の性格、性病・妊娠可能性、対人的積極性、結婚する気があるか、恋愛相手への従順さ、結婚相手への従順さ、親への従順さ、貞操の大切さを心から信じているか、初体験への憧れ・二回目以降と区別して特別視、処女厨に好感・嫌悪感、羞恥心、賢さ、思慮深さ、プライド、女の性の価値認識、性欲の強さ、恋のしやすさ、(左記二つと貞操観念から)浮気の可能性、初めての性交が盛り上がるか、等々
(家事が得意、仕事が得意、活動的・内省的、子供が好き・苦手…なんてのも考えうるだろうか?)

  • 恋する気持ち

「肉体関係に応じないと彼氏が去ってしまう。破局を迎える」と信じ込んでいた女には、それが当時は死活問題に感じられた。女は恋愛欲が男以上に強いため(澤田、1928)、恋愛の破局防止をセックスで買ったようなものだった。
(p333より)

この(澤田、1928)は、
澤田順次郎(1928)『性的本能享楽の真相』、南海書院。
「恋愛欲」が、誰でもいいから彼氏を途切れさせたくないという欲でなくて、恋した人と一緒にいたいという気持ちのことなら(ここでは勝手にその意味で使わせてもらう。)、この恋愛欲のことをもっと考えたい、私はこの先。
これで結局破局したら、女は本当に損したなんて思うの?だめかもしれないけど、この人をつなぎ止めるためにできることは全部やりたい。そう思って性交したなら後悔なんてしないのでは?


男の人が性欲が強いというのも、私はあまり信じられない。女の人の「恋愛欲」の方が強いのではないかと思う。男の人の性欲は一度満たされればしばらくは生じないのかもしれない。あるいは我慢が利くのかもしれない。
女の人の恋愛欲はたぶんそれより貪欲だ。(他に楽しみを見つけるのが下手なのかもしれない。)
失っていないかまた不安になるのは、男の人の性欲が復活するより早いと思う。だから「いつも待っている」という女の人も多いんじゃないかと勝手に思っている。


(或る)女が、強く恋する生き物であると仮定する。任意の高スペック男との結婚などと比べものにならないくらい、目の前の好きな人にこっちを向いていてもらうことが重要であるとする。この文脈で処女婚は重要となりえるだろうか?目の前の好きな人が処女婚を重視しているなら重要な話になるだろう。
そして、ある時点Aで一つ恋をするとする。またその後のある時点Bでも恋をするとする。A時点の好きな人は処女厨でなかったとする。B時点の好きな人が処女厨であったとする。女はA時点においてそのときの好きな人が少しでも求めてくれば応じるだろう。A時点での女にとって、B時点が存在することは考えられないのだから。


恋愛欲の強い女にとって、結婚は恋愛の延長ではないか。この人と一緒にいたいと思う恋愛。この人と一生一緒にいたいと思う結婚。そして、恋愛であろうが結婚であろうが、目の前の好きな人に全力で恋する。過去も未来もなしに。

  • 利害の観点

利害の観点から処女を論じることに呼応して。

貝殻がお金になり始めたとき、今この貝が様々なものと交換できる価値があるとされていることをまだ知らない人は貝を大切にしないだろう。それを知ったら「え!なにそれもったいない、超大切にする!」と思うだろう。それを知らしめるのは教育だろう。
女にその性の価値を知らしめるのは上手い教育であるというのは正しいだろう。三浦さんの言うように。
この、貝の件の人は、特に美しくないと思っていた貝を、教育によって美しくて価値があると再認識したわけではない。他の人たちが貝に価値を置いているということを知ったのだ。女が性交に興味がないまま、性の価値を知ることも普通に可能だ。これ高価なんだからべたべた触らないでという具合のものだ。
貝経済において貝がお金として使われていることを知らない者は不利だろう。現在の貨幣経済において万札を、何この紙?と捨ててしまう者は不利だろう。
結婚市場において処女がどのくらい求められるか求められないかを、子供の時から知らない者は、知るものより不利だろう。

  • 年収厨は不動か?

男の処女厨は社会の変化で減っていく傾向にあるが女の年収厨は減らないと三浦さんは言うが、私には年収厨の方が脆く感じられる。
専業主婦に対する風当たりは強くなっているだろう。年収厨も処女厨もずっと昔からだろうから随分昔と比べるが、洗濯機、炊飯器、電子レンジ、普通に普及している物だけでも家事の負担を減らす家電たちがある。風呂を薪で沸かす必要もない。家電の進化による家事負担減少はこれからも進むだろう。待機児童が多いとは言え保育所もある。学童保育もある。男性の育児協力も少しずつ増えているように見える。配偶者控除を見直すという動きもある。女も働くべき、男女ともニートはだめ、という風潮は出てきていると思う。女が働くべき、か否かという風潮は変化しうるものだろう。そして、そういう向きが強まると結婚相手の男に経済的に頼るということを少なくとも表向きには言いにくくなるのではないかそして処女厨減少の動きと同じ形で本人にも意識されなくなる。
「浮気しない」「職を持っている」が男女とも同じように両方求められる未来すら想像できる。産休をとるなら少しの差はのこるだろうが。

まあ以下は少し違う話だが、男性のみなさん、学校を出て○年、働いたことのない処女と、きっちり働いて労働の大変さの認識と貯金のある非処女、どちらがいいだろうか。という設問を考えてみた。
っていうか「会社で優秀で稼いでるあなたが好き」と言われるのと「もしあなたが夢やぶれて無一文になっても私の収入があるから安心して夢を追って」と言われるのとどっちが嬉しいのかな。
年収厨であることの有利不利を考えてみるのも面白いかもね。


  • 随時思ったこと

読みながら随時メモしたことのピックアップ。

処女のうぶな期待と妄想がセックスのハードルを上げ、それにつられて実際の性愛レベルも上がり、エロチック度を押し上げる。
(p224より)

なぜそうなるんだ。性交に期待する時点でうぶじゃねぇだろ。
そしてなぜ妄想につられて現実がうまくいくのか。初めてなんてたいがいうまくいかないのではないの?
ただでさえ高いハードル。現実とのギャップ。期待が幻滅に変わるとしか思えん。
結婚後に初めてを迎えてその後うまくいく夫婦が多いとしても、過度なあこがれを持っていた場合、その幻滅は乗り越えているのだと思うぜ。
満を持して童貞を捨てた人の残念レポートとかもネットによくあるらしいじゃないか。(そういう人たちは商売女がだめだったのかもだが。)


しかし20代30代の処女が実は結構いるというのは驚くことだ。
男の子の本音が処女厨だったとしたら、それを知れば自分の処女性を大事にしようと思うかもしれないが、男の子の本音はなかなか知られていないわけで、なら処女が意外と居るってなる程の割合の女の子が敢えて処女を守る理由は何なのだろう?処女はその気になればすぐやめられるっていうのなら。

男は、好きな女となら話をしているだけで楽しいので、女にあえてセックスを求める動機は小さい。逆に、愛していない女とだったら長時間話をしても楽しくないので、すぐセックスを求めたくなる。簡単な論理だ。
(p130より)

セックスレスの人はこれを心に留めとけば幸せなんじゃね?


性交しなくても一緒にいたいと思ってもらえるほど可愛くないし人間的に魅力的じゃない。独りで居られるほど強くない。いつか結婚するだろうなんて思えるような自信もなかったし、まして男の子が処女が好きだなんて気づく賢さもない。だから私は非処女なのだ。
わざと処女な人は、可愛くて魅力的で強くて自分を信じていて賢い。(しかも性交を特別視するエロさ。)そりゃ結婚したいと思うわ。


女にとって、なるたけ性交しないこと、それなしで愛してもらえることが大事なのだとしたら、性欲のない男の人がモテてもいいんじゃないかな?
世間では結婚したら子供がほしいという人が多いなら、結婚相手についてはそうではないとするとしても、つきあうだけの相手はそういう人がいいのでは。性欲の強い人で、自分を大切にしてくれないなら危険だし、大切にしてくれるなら我慢してもらうことになってしまう。
優しい女の人なら、それは申し訳ないと思うのではないか。他のもっとガードが固くない人なら我慢させることもないのに、と。私の為に我慢してくれてるのね!なんて思う女の人はあまり性格良くないのではないか。
だから処女を守ったまま結婚相手以外とつきあおうと思ったら、優しい女の人は性欲の弱い男を選ぶのでは?
それか、いつか結婚しようと思っている女の人にとって、交際はすべて結婚できるかどうか見極める為なのか?


性交を神聖視・特別視する人は、男女どっちが多いだろう。
男のほうが多くて、処女厨は性交を神聖視する人に多いのかな。


一般の女の人は性交したいのしたくないのどっちなのかな。多くの処女には性交は憧れで、もったいぶって取っていて、多くの非処女は恋人にそばに居てほしくてしかたなくしてるの?(それなら非処女の方が心が清くね?エロくないという意味で。)


第4章のp228辺りに、性交してみないとわからない「体の相性」というものの存在への疑問が呈されている。普段の会話や接触で判断できない性交固有の相性などあるのか、と。
あると思う。少なくとも―話し方、態度、慎重さなどが普段と性的な場面とで異なる例が、私の周りでは多い。男女ともそうである。
そして、相性というと二人の評価が同じはずであるかのようだが、そんなことはない。片方だけが楽しい性交などざらだろう。相性という言葉を使うなら、お互いに好評価な場合が「相性が良い」、その他の、片方だけ好評価・互いに評価が悪い、場合が「相性が悪い」となるだろう。性格や容姿と同じである。
そして選択肢が多いと選びにくいのは、性的な場面での態度などに対しても、普段の性格や容姿に対しても同じだろう。


男性のほとんどが処女厨なら、男性による、恋愛で処女を減らす行為はもっと慎まれるのではないか?
(と思っていたら、実際、恋愛で処女を減らす処女厨は少ないと書いてあった。)
なら、処女厨以外の少数の男がどんどん非処女を増やしているのか?非処女の恋愛での初性交相手はたいがいヤリチンなのか?

「処女を守る」程度のことがたいていの女には成し遂げがたいということだ。あるいは少なくとも、ほとんどの女が誘惑に負けているのが実情、と多くの男が信じていることだ。
(p329より)

前半の文は女の立場で見ても成り立つ。課題に気づかないから成し遂げがたい。
でも後半の文の「誘惑に負ける」という言い方は女が「処女守るべし」という課題に気づいていると男が想定しているという意味か。課題を知らなくても「誘惑」はありえるが、勝負する本人が勝ち負けの基準を理解していないと「負ける」とは言えないのでは。
それか、男が自分の基準で女の知らない勝ち負けを言っているだけなのか?


簡単に恋人との性交に応じることを薄利多売的であるとしよう。男の性欲を満たして女は恋の継続を得る。そして、高価値の「処女」を保ち続けて、高スペック男を伴侶として得るのが、高いものをたまに(というか一度だけ)売るのに相当するだろう。女に恋愛欲があり恋愛したいとして、処女を守って恋愛できるのは美人で性格のよい魅力的な女だろう。恋愛に際して男にとっての女の評価の要素を考えてみると、ざっくりと容姿、性格、性交させてくれるか、ではないか。前の二つがよくない女の場合、恋愛する為には三つ目の要素が必要となる。コミュ障不美人が恋愛をするにはガードをゆるくする、あるいは恋愛の相手を選ぶのに高望みしないという方法が必要だろう。
そうなると逆に、非処女になりやすいのはコミュ障不美人ということになる?