Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

のぞき学原論

のぞき学原論―-The Principles of Peepology-

のぞき学原論―-The Principles of Peepology-

うんことか消化器官すきだけれど、さすがにこれだけうんこのことばかり読んでたらちょっと食傷。しかし面白い。むしろそこが良い。
あと、この本をお菓子とかつまみながら読んでしまうのは、変なのか普通なのか。

  • コミュニケーションの方向と片想い

当事者の一方が他方を、(少なくとも表面上)気づかれぬように見つめつづけるとすれば、情報・接触の一方性が蓄積され、覗きは不均衡・低エントロピーの生産装置として作用することとなる。
(p50より)

一方性。「片想い」を考えるとき、覗き的なものはとても参考になるのではないか。
片想いについて、考えたい項目:他人の心(読めない、存在する確証もないもの)と片想い。


p60辺りに芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」を取り上げている。死の床で寂寥の中、旅先の隣家に思いを馳せている句、なのか。恥ずかしながら知らなかった。
寂しさと一方性。留守番していて寂しいとき(人生の内のかなりの時間だ。)、薄い壁や天井の向こうから隣家の物音や猫の足音が聞こえる。あるいは表を車が走る音が聞こえる。それで随分寂しさが紛れる。
コミュニケーションに飢えている人は悪意さえありがたいだろう、と前思った。それだけではなく、近くに生き物が存在するということだけでもありがたいだろう。「片想い」でも。
(片想い的状況は普通の狭義の「片想い」はもちろんのこと、交際中の想いの不均衡や、また友情や家族愛においての片想い、そして見知らぬ生き物同士の意識の方向としても存在するな。)

  • 性的に美しいのは女である

男性誌の女性ヌードグラビア並に女性誌に男性ヌードグラビアを載せたところ売り上げが落ちてしまった、というアメリカでのエピソード
(p141より)

単純に「性的に美しいのは女性」であるからだと思う。男性の美しさは、世界の中の様々なものと同列な美しさだ。雨粒や稜線、建造物やしなやかな動物の動き、あるいは子供や老人などの美しさと同じ。

女性向けエロコンテンツを好む男性より、男性向けエロコンテンツを好む女性のほうがずっと多くいると感じる。

愛でることを楽しむ男性と愛でられることを楽しむ女性という構図が現実の色々なところにある。(主に恋仲の男女において。)
どちらが楽しんでいるのも「女性の美しさ」だと思う。
(同じ著者の「下半身の論理学」の処女問題において、女性が求愛を受け入れるのも受け入れないのも、女性としての美しさを楽しむという意味では同じかもしれない。)
「下半身の論理学」の感想→通りすがりのメンヘラビッチが処女のこととか考えた。 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

普通の性的コンテンツにおいて、女性の美しさがまずありきだ。それだけでも成り立つし、男性がそれを愛でて引き立ててもよい。

それにつけても腐女子と呼ばれる人たちの頭の中はどうなっているのか。女の子不在では何も始まらないではないか。
と考えて思いついた。女性の美しさがあれば、物語中の男性はそれを愛でざるをえない。本人の魅力などは小道具でしかない、他を「愛でる者」、語り手的存在に堕ちなければならない。
腐女子の人たちは、語り手に堕ちてしまわない主役として、男性を観賞したいのではないか。そのためには女性はいてはならないのだ。

そういう腐女子の人たちは例外として、性的な文脈で、(私の独断と偏見による仮説では)
男女が異性の体に魅力を感じるのではない。人間が女性の体に魅力を感じるのだ。
女性の体が好きな男性より男性の体が好きな女性が少ないのは性欲の違いによるのではない。魅力的なのが女性だからだ。そして、女性は自分自身が女性であるという点で、元から満たされている。それで見かけ上、性欲の違いがあるように見えるのだ。

女性は(平均すれば)、体力でも知力でも男性に勝てないけれど、美しいものとして生まれたことーーー女性として生まれたことを十分に幸運に思ってよいと思う。

  • 読んでて思いついたことたち

ところで魔法少女物とかで、心は子供・体は大人ってよくあるけど萌えるよね。


うっかり無防備としてのチラリズム。(と、合意の上でわざとそれに似た状況を作ることとかも。)無垢なままのエロスを観賞するには覗き的状況が不可欠?


作中で男女共同参画とか呼ばれる女性盗撮者やヤラセの被視体である協力女性の、男性の欲望への寄り添いみたいなもの。
押見修造「ぼくは麻理のなか」のことを思った。

本物盗撮でわかるとおり、小刻みに流しながら排便する女がきわめて多いのが現実
(p241より)

うそだろ。そんなことしたら今回の排便で出たうんこの全貌を自分で確認できなくなってしまうじゃないか。快腸快腸と満足したり、水分が足りないなとか反省したりできなくなるじゃないか。
それかみんな、まとめて流したら詰まるほどの大量のうんこを一回でするのか?あるいは公衆便所で周りの人に音を聞かれるのが恥ずかしくて水音でごまかすのか。そんなにいつも音出るのか。


羞恥心というものがあるおかげで存在する幸福が多分いくつかある。
すべての物事が均一に見えてしまうのは救いであると同時に、そう思わなければならない状況に陥ってしまった嘆くべき不運でもあるか。。