Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

性的資源と愛の需要と供給からくる卑屈さ


Sと自称する人たちがいる。ここでは男性について。
いかにもいじめっこというかDQN然としていて、普段の会話などにおいても人をいじるのが好きなのだろうなというかんじの人もいる。


普通の性交で攻めるのが好きなだけなのをSだという言い方をする人もいる。(そういう人にはつい喧嘩腰になってしまう。)


そしてきっと、自分のような男に触れられて嬉しいのは被虐趣味な女だけだろうと思っている、卑屈な人がいると思う。
それがはっきり意識的であれ、無意識的であれ。その卑屈さから、通常のSM的プレイに入り、原因が卑屈さだと意識されていない場合も多そうだ。


そのような卑屈さに対応する女の卑屈さを考えてみる。
ほぼ全ての女に元からある性的資源のことを認識している女について、どういう卑屈さを持ち得るかというと。
自分に愛されて嬉しい男などいない、という卑屈さである。


男は性的資源を享受できる資格、容姿含めたスペックについて卑屈になる。
女は性的資源を皆持っているといえ、公開提供の意志を示すものは少ないのでそれに対する需要は十分にある。性的資源のやりとりについてはその限りである。欲する男>公開する女。男のほうが不利であり、自分のような者は得られないのではないかという卑屈さが生まれる。
しかしそれとは別の話で愛の市場に関しては女が不利である。恋愛欲の強い女は愛し愛されたい。男にその欲求は少ない。愛し愛されたい男<愛し愛されたい女。そして、自分に好かれて嬉しい男はいないという女の卑屈さが生まれる。
ちなみに女がほぼ須く性的資源を持っているということを知らない女に関しては、愛されない=性的に求められない、という考えを持つだろう。