Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

「ゼロからの論証」三浦俊彦

ゼロからの論証

ゼロからの論証


●stage3 メタレベル
3ー3 ファンタジーとしての<私の宇宙>ー虚構の美的選択、自己の観測選択
4 「強い人間原理」から「弱い人間原理」へ
(p87)

トークンとして厳密同一のこの私ではなく、タイプとして同一の、私<のような>自意識的存在がどこかに実現してさえいれば、私はこの世界を観測していることになる。

まず。私<のような>自意識的存在がどこかに実現しているというこの状況はなぜ起こったのだろう。自意識的存在が一つも生じないというふうになっていないのはなぜだろう。知的生命が居ることと「少なくとも一人」私のようなものが居ることをつなげる方法があるだろうか。あるいはそのような疑問が生じているという前提の元では"私"が存在するのは当たり前であるというなら、その疑問が生じるようなこの状況("私"が居る)が起こっているのはなぜだろう。

それと。嫌だけれど、他者の中の私のようなものを"私"と並列に論じることが出来るとしてみよう。その上で、ある世界に少なくとも一つの自意識的存在が存在するとする。それだけで「私はこの世界を観測していることになる」と言えるのか。それが「別の自意識的存在」であることはないのか。その別の自意識的存在が、どうして自分は居るのかという疑問を持ったとしよう。でもその世界に"私"が居ないならば、その疑問は生じていないのと同じではないか。
自意識的存在がいつどこに宿っても只一人しかいない自意識的存在(この"私")がそこへ入る仕組みであると言っているのなら、きっとまあ言うとおりなのだが、「観測の主体ではない「他者」」と直後で述べているので、この文脈ではそうではのないだろう。


●stage4 バイアス
4ー2 自然選択説が選択する不自然な自然選択
6[脳に生まれたのだから脳だけに生まれる]のか?
(p152)


・(脳のような)複雑な物質は生じにくい。
・私では意識は脳に依存している(少なくともそう見えることは認めます)。
コペルニクス原理により、私は特別な場所ではない
という話で、
「意識と脳とが独立なら、私という意識が脳として生じた確率は低い。実現確率の高い対立仮説は、意識は脳を必要条件とするというものである。」
と言っている。この種の議論に関する三浦さんの話、これでやっと納得できた。というかやっと阿呆な頭でも理解できた。気がする。(ここで脳は、脳そして知性としてもいいのか。ふむなるほど。)
待てよ、私以外にも意識があることを前提としているのか?否、そういう想定で話してるのかもだが、意識が一つしかなくてもなりたつよね?
しかし知性だけでなくそこに意識があって初めて選択になる、か?そうか?哲ゾの知性が選択の議論をしているのではだめなのか?三浦さんは哲ゾかもしれないじゃないですか。そしたらこの本の議論はどうなるの?

あ、それも次のセクションに書いてあったけど。F3を言うのが哲ゾであるかもしれないじゃない。あ、私が言えばいいのか。
F4もそう?でもない?
私の乗り物であるこの人が哲ゾじゃなかった。だから他の人々も哲ゾではないだろう。これ、地球に知性が生まれたからどこにでも知性が生まれるだろうみたいなものか?
ああ、ちゃんとそう書いてあるわ。

この世界においてなら、とにかく脳が一つでもあれば私はそこに宿る可能性があった。それを認めたとしたら今度知りたいのは次のこと。それと、私がどこにも宿らなかった可能性とを比べることができますか?

私が居る、そして脳にいる。なら私が居るのが脳だったことは必然だった可能性が高い(仕組はわからないけれど)(脳は珍しいから)。しかし脳があれば意識が宿ることに関してはそうではない。だから他人に意識があるかどうかはわからない。あってます?


●5ー1 観測選択効果と多宇宙説ー「逆ギャンブラーの誤謬」の誤謬

(p185)


ここの、シナリオCを私と私以外の意識として見たら面白いのではないか。
シナリオCはこうである。
私が起こされて賭場に連れていかれると、サイコロの6ー6が出ていた。聞くとこう決めていたらしい。一回目に6ー6が出たらPさんを連れてくる。二回目に6ー6が出たらQさんを連れてくる。n回目に6ー6が出たら私を連れてくると。

n回目以外に6ー6が出ても、私は眠ったまま放置されるので、この現実の観測Eは実現しなかったことになるのだ。

(p186)

これってまんま、私が居るか、私が居ないか、という話に相当するんじゃない?

さらに。まず普通にはn回目に6ー6が出て私、chiiが呼ばれたら6ー6が観測される。そして別の世界で私がchiiではなくQさんだったとしよう。そうしたら2回目に6ー6が出てQさんが連れてこられたときに、6ー6の観測は、起こる。つまり、chiiが呼ばれたときに観測が起こるのでなく、私が呼ばれたときに観測は起こるのだと言いたいのでした。
私にとっては、私が呼ばれるか呼ばれないか。この想定では、n回目に出たら私が呼ばれると決められていることが重要であり、他の回で他人が呼ばれるか呼ばれないかはどちらでも良いだろう。只n回目に6ー6が出れば私は観測する、すなわち存在する。n回目に6ー6が出なければ私は観測しない。すなわち存在しない。


●(p208 L12)を読んで。


独我論が論点先取り的に"私"を特別視しているみたいではないか!ようし、私が居ることを忘れた上で仮説を用意して、そこから私が居るという条件から事前確率と事後確率比べてやる。三浦さんの議論に沿うとこうなるかな。


仮説A 意識は一つだけ発生している
仮説B 意識はたくさん発生している


場合α 私は必ず発生することになっている
場合β 私が発生するかどうかはわからない


証拠E 私は発生している


場合αではAともBとも言えない。場合β(こっちだという強い直感の元で今までものを言ってた)では、Bの可能性が高い…

まじか…βはこの意識を特権化することに役立つと思ってたのに(直感で)。。上の脳の話と合わせると、他者に意識がある可能性が高いということか。。えー、まじか。。
他者に意識がありそうってことと、場合α私は必ず発生することになっている、だったら前者の方がまだありそうだよな。。
他者に意識があるのか…まじか…
それってどういう状態なの?
森に他にも人がいるっていうのは物理的状態で、わかりやすい。他者に意識がある、中の人がいるって何、どういう意味なのか。有機物の代謝と脳内の電気信号群と表情や言葉や熱や感触の向こうにある、何?概念みたいなもの?犬の集合?上に挙げた物質や動きその物?そうではないよね。それらがあるのは仮説ABとか場合αβとか言う前からわかってることだ。非物質的な何かであることは確かなのかな。集まったものの呼称とかでもないよね。それは別の名前で呼ぶことも、呼ばないこともできるし。他者の脳に連動して何かが発生してる。それは…私のようなもの?私のようなものが他者にも居る?うーん、なんだか元々当たり前のようなのに、受け入れがたい。。論理で存在を予想できてしまうようなそれって。何なんだ。もっとぼんやりしたものと思ってた。もちろんそれらの意識と私の意識は違うだろう。私に認識される方法というか私との関係において、というか私=私、私≠他者(の意識)というかんじなだけなのか。そう、他者の意識とは何かというより、ここで導き出される他者の意識とは何か、という。
この論証における仮説Bは、詳しく考えてみると…。意識発生の現場がたくさんある。そしてこの私さん、あの私さん、その私さんなどが裏に発生可能な仮想の存在として控えている(簡略化のためそう考えるとする)。そして、当たった私さんが現出する。
うーん、やはり私のようなものなのかな、他者の意識って。。

でもでも、私が存在しないんじゃなくて、存在したのはなぜかっていう謎はまだ残ってるよね!