Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

震災俳句について2

震災俳句についてから続いてます。


震災俳句とエジプトからのエール


千羽鶴と、
普通の言葉と行進によるメッセージと、
メッセージである震災俳句。
それらについて考えてみる。


まず千羽鶴
これはもともと願掛け的なものだよね。
鶴を千羽連ねることが「早く元気になるように」とかのおまじないになる。
それが転じてメッセージ的な役割も含むこともあるだろう。
病気回復や復興に物資として役立つわけじゃないし、言葉としてのメッセージでもないけど、千羽鶴が回復や復興への願掛けやメッセージになるという文化、形式の上では、それは応援の意味を帯びうる。


上のリンクにあるような、言葉と行進によるメッセージはどうか。
まず言葉について。
意図を伝えたりするための普段の言語は、俳句などの文芸に比べて、それだけではっきりと応援の意図を伝えやすい。
(それもまぁ、“「がんばれ」という言葉が応援を意味する”という言語体系=形式に乗ってこそ応援の意味を帯びると言えばそうなのだが。)
普通の言語は俳句など詩の言葉に比べて一義的だし状況に拠る度合いが少ないだろう。
応援のメッセージを正確に送るには、文芸より普通の言語のほうが易しいかもしれない。
行進については。
これは、たくさんの人が集まって行進することによってメディアに取り上げられたりして、日本に伝わりやすいというのがまずあるだろう。
あと、これも千羽鶴みたいに願掛け的な意味も含むのかもしれない。


メッセージとしての震災俳句はどうか。
それだけで応援らしい句と、それだけでは悲しみか不安か怒りか勇奮か、(目で見た、または想像の)客観的な描写か、あるいはどれかわからない句もあるだろう。
後者の句がメッセージとなるのは、作者が前書きにでも書くか、あるいはその句が応援メッセージとなるような形式の上に乗せるかだろう。
長谷川櫂さんの季語歳ブログでの震災俳句・短歌募集はそのような形式の提供になっていると感じた。
氏は「応援メッセージを」とは言っていないけども。
そしてこれも、願掛け的な側面も含んでるような気がしてきたんだよな。
ここに震災関連の短詩を載せることが復興への祈りになるという形式。
泉にコインを入れるような。