Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

震災俳句について

ある種の震災俳句は私にもちょっと気持ち悪く感じられる。
なぜそう感じるのか。
また、どういう種類の震災俳句が気持ち悪く感じられるのか。


震災が起きて、それを受けて作られる俳句の分類。


A)句の外見の形による分類。
1.震災を素材に、それを中心として詠まれた句
2.震災を素材に、それを脇役として詠まれた句
3.ぱっと見は震災とは関係ないけど震災のことを考えて詠まれた句
4.ぱっと見は震災と関係ないけど作者の気分などが震災の影響を受けている句


B)句の位置づけや作句目的による分類。
1.被災地にメッセージとして送る句
2.被災地に娯楽、読み物として送る句
3.いつもどおりにただ作句した句


今、私とか少なからぬ俳句の人が気持ち悪がっているのはBの1だろう。
Bの2は、俳句好きの人なら嬉しいのではないか。
Bの3は、Aのどれに当てはまるかにかかわらず、気持ち悪かったりぞっとする句(起きている事に対しても、作者の姿勢に対しても、各々)が出来るかもしれないが、それは文学として必要な作品だと思う。
人間や世界の姿を示すものとして。


なぜメッセージとして送る句は気持ち悪いのか?
否、何かにおけるメッセージ句全般が気持ち悪いわけじゃないぞ。
そもそも和歌とか人が人に送るメッセージだったし、漱石の猫さんが死んじゃったとき虚子は俳句を送ってるじゃない。

ワガハイノカイミヤウモナキスヽキカナ  虚子

他にもいろいろあるだろう。
でもそれらは個人レベルで知り合い(あるいは一方は知ってる)で、一人が一人に送っている。
震災俳句は、誰だかわからない人(たち)が誰だかわからない人(たち)に送っている。
もし送り手と受け取り手がかみ合ってないとしたら、それが一因になっているところもあるかもしれない。
かみ合わないのに気づかないで送っちゃうというのは、知らない人だから余計そうなりえるのかも。
メッセージとしての震災俳句を見たとき、「被災者の人はそれを求めてないんじゃないのか?」と思ってしまって、一方的な気がしてしまって、それで気持ちがわるいのかな。
実際に被災者の人がメッセージ俳句を求めているかどうかはわからないけども。
それに、震災を詠んだ俳句のいい作品を生み出せるような経験は被災者の人のほうがしているのだから、そんな彼らに送る震災俳句はよほどいい作品でなくてはならないのかもしれないね。
知らない人に、前後の文脈なしに17音の一行だけで、デリケートなメッセージを伝えるというのはかなり難しいのかもしれない。
漱石の猫さんへの虚子の追悼句とかは、漱石と虚子が知り合いだったからから成り立ったのかもね。


震災俳句 - Togetter
地震と俳句 : 無門日記
俳句にできること、ですと? : 俳句的日常 come rain or come shine


(補足)
漱石の猫への追悼句を、子規が詠んだと書いてましたが、虚子の間違いでした。
恥ずかしい。。
2011/3/25訂正。
こういう事情なのですね。漱石の猫 - 俳句雑記帳