Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

超新撰21

超新撰21―セレクション俳人プラス (セレクション俳人 プラス)

超新撰21―セレクション俳人プラス (セレクション俳人 プラス)

読んだよー。
以下気まぐれに拾う。
[ ]内は感想です。


●明隅礼子
断食月(ラマダン)の夕べ激しきスコール来
白鳥は夢を見たくてまたねむる
春着の子みなみどりごに触れてゆく
[子どもの句とか、他の人のは感情移入できず冷たい目で見てしまうことも多いけど、この人の子どもの句は遠くで暖色に光ってて、胸がざわざわする。]

●ドゥーグル J. リンズィー
八方に海ひがしより我鬼忌来る
花過ぎの兎を抱けば脈打てり
震へをりとなりの葡萄取られし時
時空連続体に穴の在るらし鵙猛り

●榮猿丸
鍵ハアリマスアネモネノ鉢ノ下
胡麻振るやハンバーガーのパンの上
[確かにポップ。食べ物がおいしそう。]

●小野裕三
蛍が死んだらヘレン・ケラーのようだ
ひまわりが無伴奏で咲いている
釣瓶落とし魔球ばかりを投げてくる
軸足がまちまちであるなまはげ
弟が鬱蒼としてあたたかし
梟と僕とばらばらに悲しむ
[とても好きだな。]

●男波弘志
乳房もて秋の蛍を囲みけり   ※「蛍」は旧字
そこらぢゆう磯巾着と梵字かな
天地やゝ(ちゆ)とこゑのして甘茶佛
初潮や散らばつてゐし臍と胞衣(えな)
抱かれついでに穴子など裂いてをる
みな橋の袂で居なくなる祭
百遍死にまう一度死ぬ泉かな
[自分(の身体)は内臓や肉や表皮から成る肉塊であって、もちろん他のヒトや生物もそう。
それを深く感じてる人なんじゃないかと思う。
だから「母」は肉塊の過去に繋がり、海牛とか単純な生物はわかりやすい肉塊。
人体を構成する機関を分解して示してみせるのもそれらを意識するため。
でもいつも人体とかに対する気だるい愛がある。
エロスやグロテスクの良質なものはこうなるのでは。]

●杉山久子
なぐさめはいらぬ冷奴をおくれ
春風を蹴る三人のおばあさん
[『猫の句も借りたい』の人だね。]

●佐藤成之
なぞなぞはおわらぬげじげじむかでけら
かあさんはぼくのぬけがらななかまど

●久野雅樹
ひらめきて食ふパンプキンプリンパイ
加速器がある紫陽花の群の中
ごきぶりの幾匹ひそみノアの舟

●小沢麻結
木の実降る音と信じて振り向かず
春の雲ぬうつとネアンデルタール人
[淡くて、物語が向こうに透けて見える。]

●柴田千晶
パートタイマー満載のバス朝の虹
凍晴の廊下来て父失禁す
手鞠掌に戻りて寂し父の顔
[最近の介護文学比較。モブ・ノリオさんの『介護入門』、「新撰21」の関悦史さんの介護俳句、そしてこの柴田千晶さんの介護俳句。
三つとも愛がある。モブ・ノリオさんと関さんのは壮絶な日々の感じが出てて、関さんのは特に景色がゲシュタルトしちゃってるかんじ。
柴田さんのは、壊れていく脳と、介護者・被介護者の感情が見えて悲しい。]

清水かおり
木彫りの鳥の左目を削る
告げたい告げたい鳥は汚れる
兆すからあれは内緒と鉄を打つ