Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

音楽を教えるということ

うたごえ喫茶のピアノ伴奏。


休憩中に5、6歳のちびっ子が楽器に興味を示して、適当に音を鳴らして遊んでいた。ちびっ子にピアノを教えてみたいと思った。


と同時にこうも思った。
その子が出している音は、楽譜に書けるようなものじゃないけれど、それは既に音楽だ。(実際あらゆる音は音楽と呼び得るし、あらゆる行為は芸術と呼び得ると思う。)
音楽ではないと言うなら、それは「私達とルールを共有する種類の音楽ではない」ということではないか。


子どもは生まれた時、無秩序で自由であらゆる可能性の中にいる。
そしてこの世界にすでに生きている人達と一緒に生きていく為に(或いはそうさせる為に大人が)言葉の意味を限定し、行動の方向性を定め、私達の社会と折り合いがつくようにしていく。

「音楽を教える」という行為もそれと同じではないか。只の音楽を、私達とルールを共有できる音楽にしていく。音符と音、鍵盤の対応や協和・不協和。声の出し方や指の使い方。思った音を出すこと。何が美しくて何が美しくないか。
そのルールは絶対や必然ではないし、「音楽を教える」ことが正しいのかはわからない。だけどそのことでその子は私達と一緒に音楽ができるようにはなる。


複数人で一緒に音楽をする人達は、今この世界にある音楽のルールを共有し、その中で(おそらくは)同じ所を目指している。
(ルールの共有という意味では、言語によるコミュニケーションやスポーツにも似ているかもしれない。)
(目指す物・目標というはどんな場合も相対的に、個別にしか決められないのかもしれない。全ては「自分達が勝手に決めた目標」であることには変わりないのかもしれない。)