詠まれている事実の共有
私は俳句を含めた詩を書くとき、だいたい自分の体験に基づいて、或いは自分の体験から連想して書く。
それを読む読者は、たいていは作者である私のその個人的体験を知らない。
しかし時事に関して作品を作った場合、作者と読者はそれを共有しているだろう。
特に大きなニュースになったこととかでは。
震災俳句はそういう特徴も持っているなと。
作者と読者が、その一つの出来事について知っているという。
「知り方」はそれぞれ違うとしてもね。
被災したか、揺れを感じたか、ニュースで見ただけかの違いはあるとしても。
だから個人的体験から出た俳句を読んだとき受ける感覚と震災俳句を読んだとき受ける感覚では、その印象を作り出す材料が違う。
前者の材料は、読者における言葉の意味の知識、読者のそれらの言葉にまつわる記憶、その句が描く図。
後者の材料はそれに加えて、当該時事である震災に関する読者の知識と体験と感慨。
そういうところも一つ特徴的な点だなと。
何を詠んだか分かってしまうと、読む時の自由さに欠けて、それが少し不満なのかもしれないな。
戦争の句とかだったらあまりそう感じないのだけどな。
身近じゃなくて茫洋としているからかな。