Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

それが憂鬱である。

どうして今日という日のこの時間に私という人間がここでこうして里芋の泥を落としているのか。
それが憂鬱である。
どうしてこんなにも不可思議な世界の中で割烹着を着てひとり延々煮立った鍋を眺めているのか。
それが憂鬱である。


もう買い物に行くのはやめにした。
今日は冷蔵庫に僅かに残った野菜でなんとか済ませることにしよう。


実野菜は概して食べやすい。
動物に食べてもらい、種を運んでもらう為に、その形状を進化させたからだ。
イモ類は概して調理に手間がかかる。
己で使うための栄養を蓄えておく機関なので、動物に食べられては困るからだ。


里芋は、長い間、裏手の段ボール箱の中に眠っていた。
洗われ剥かれ茹でられるべき存在として、だ。
その存在はずっと私にその辿るべき過程の手伝いをすることを要請していた。
里芋という概念はそれ自体で、「洗われ剥かれ茹でられる」という展望を含んでいる。
ちょうど卵という概念が、「ヒヨコになりニワトリになる」という展望を含んでいるのと同じように。


かくしてこの世界では、泥のついた里芋は消え、調理された里芋が現れた。
すなわちここに残ったのは、調理された里芋、まだ裏手にある萎びた大根と葱、そして私。
それが、憂鬱である。