Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

自由意思の否定の仕方のひとつ

涼宮ハルヒの憂鬱 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたことで、今も以前もこれからも、起きることは決まっているし決まっていたと考えることにしていると書いた。
テッド・チャンの「あなたの人生の物語」の主人公と違って、これから起きることを知らない私達にとっては、起きることはどうやって知らされるのか。
「今」起きたことを、私達は「今」知る。
それこそが選びようのない時間軸上に描かれた物語の現出。私達が知る瞬間なのだ。


そして自由意思の否定をひとつ示すとこうなる。
例えば、あと5分寝ていたいという欲求があったとする。
しかしそれでは遅刻してしまうので起きたとする。
これは一見、
寝ていたかったんだけど起きることを「選んだ」
ようにみえる。
しかし起きたのは、「起きたかったから」だ。
「眠いからあと5分寝たい」より「遅刻したくないから起きて会社に行きたい」という欲求が大きかった為だ。
それらの欲求は自分で自由に生み出せない。
その意味で人は、やりたいことしかできない。
やりたくないことはどうしてもできないことになっている。
この考え方は常識をそのまま包含するもので、否定するものではないよ。
もっとも、べつに試験勉強なんかしながらこんなこと考えているわけじゃない。
よく考えたらこうだってだけだ。
試験勉強するときは、ただ単純に「がんばるぞー」って思う。
あるいは思おうと思う。あるいは思おうと思おうと思う。


ふむ。上記の理由で意思は自分で決められないとして(自分で決められないものを「外」と呼びたいな。)、人の意識の活動は意思だけじゃないだろう。
思いつくものを挙げてみると、
その意思。それから感情。思考。
上で欲求と言ってるけど、「感情」に含めていいかな。
感情は自分で決めて湧かせるものじゃないのは自明だよね。
欲求はそれに含まれて、意思もその支配下(というか同じもの)だ。
思考はどうかな。
我思うゆえに我あり<2> | 夕暮れ散歩道←ここで書いたように思考も自分で生み出していると断言できない。
ただ、生み出していないともぱっと断言できないので、思考は自分で自由にできるものかもしれないとしよう。
でも思考には何の決定も入っていない。(今ここで使う「思考」って言葉はそう定義しますね。)
入ってしまったら意思であり、欲求だ。
思考は、自分の頭の中だけの働きだ。
考えながら誰かにあるいは独り言でしゃべったとしてもそれが意識的なら欲求が噛んでるわけで、自律的じゃない。
無意識に口に出してるんだとしたらなおさら自律的じゃない。
思考の結果何らかの行動に至った場合どうだろう。
それもそこには何かの判断つまりは意思や欲求が入っているはずだ。
というわけで、やっぱり思考は頭の中だけで、外に影響を及ぼさない。


そう考えると、人の意識の中で自分の行動や外界に影響を与えられる部分ってあるのかな。
例えば落ち葉が風に舞って不規則な動きでゆっくり落ちてきてるとしようよ。
その動きは何によって決まっているのだろうなぁ。
物理法則? ではその物理法則はどうやって決まったのか。
昨日から続いてる物理法則だとして、それが今日も続くとどうやって決まったのか。
仮に物理法則も、それが不変なことも自明だとしてもその初期値はどうやって決まったのか。
また、人が自律的にその動きを変えることはできるのか?
落ち葉に触れるなり息を吹きかけるなりすれば落ち葉の進路は変わるかもしれない。
しかし「落ち葉に触れたい」とか「落ち葉の進路を変えたい」とかいう欲求は(上で言ったとおり意思に見えても実は欲求。)あなたが生み出したものではない。
外界の物も他人も、自分の行動すら、自分で決められるあるいは関与できるものはないし、それらが何で決まっているのか分からない。
わからないなぁ。