Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

私と外の分け方

最近思いつくたびにはてなハイクに書いてたことを、ちょっとまとめ。


関連する話:[続き物]観測者 | 夕暮れ散歩道(私の旧ブログから。「観測者」について)
      http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/gakuFrame.html(飲茶さんのサイトから。「クオリア」の項)


東洋医学があつかう領域

 ・人間は一繋がりの自然の中の一部だ。
 ・生まれることも死ぬことも、自然という物質の配置や
  物理・化学反応全体における小さな変化のひとつでしかない。
 ・身体と心がひとつの機構を為して機能している。
こんなふうに言うとき、人間における人体=物質的側面のことを考えていると思われる。
しかし意識を持った(あるいは観測者たる)私という特殊な存在のことはその空間の中では語れない。
また、心身一元論における心は、やはり脳における物質の動きや化学変化のことだ。
「私」という、その他のものとは在り方が決定的に違うものについて考えれば、生と死は大きな変化だ。


■私と外の分け方

認識世界を外(他者)と私に区切って名づける、ということを思いついた。
その区切り方は任意。
たとえば、
 1)私=すべて      外=(なし)
 2)私=自分の身体と心  外=その他の生物、無生物、環境、概念など
 3)私=自分の心     外=自分の身体、他の生物、無生物、環境、概念など
 4)私=自分の意識    外=自分の気分、感情、他の生物、無生物、環境、概念など
 5)私=認識世界の観測者 外=自分の意思、思考、気分、感情、他の(ry
などなど。

下に行くほど「私」の範囲が狭くなり、上位の私と呼ぶ。
最上位は観測者。
東洋医学は 4)あたりで「私」が(あるいはお医者さんが)「外」を上手くコントロールすることによって体調を整えてるのかな。
そしてやっぱり「誕生や死が小さな変化」とか言い出したら、「私」の存在を忘れちゃってるみたいだ。
西洋医学は、主に 3)で、別枠として精神医学とかがある感じ?
1)はそもそも私と外に分けるということを考えてなくて、漠然としてるかんじかも。


ちなみに 3)みたいに感情が「私」に含まれると考えてたら苦しいことも、 4)みたいに感情は「外」つまりひとつの状況・情報でしかないと考えると客観視できて楽になれるね。
生じている感情を否定して変えようとするんじゃなくて、環境だと思うと受け入れるしかないというか。


■今度考えたいこと

生きているということに対してどう思うか。
この時空間という形式の中に私が現れて存続していることを考えたとき、嬉しいか不可解か。