Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

「多宇宙と輪廻転生」を再読した。


多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス


序章でまずちゃんと言ってた。私が人間原理の"私"の話への適用に対して感じていた違和感にもこんなふうに。
私が生まれないことの方が生まれることよりずっと起こりやすいはず。ではなぜ生まれたのかという不思議。私はもともと存在する必然を伴った者だという解決。
人間原理で跳躍進化とかを説明されちゃうような気持ち。そのものについて考え込んでも仕方ないよ、と。そうだったら仕方ないな。
あるいは、やり方はわからないけれど、できるということだけ言えちゃう数学の証明みたいな。
うむうむ。面白いからもっと考えたい。


●三浦さんの言っていることやそれを元にしたことで今面白いなと思うこと


A 意識は脳に生じるものであるだろう
(脳は少ないのに私は脳に生じているから)
B 哲学的ゾンビではない他者がたくさん居るだろう
(意識が多くあった方が私は生じやすかった)
C 私は生じるものであっただろう
(私が生じない場合がたくさん考えられるなら私の生じた不思議は解消されない)


「ゼロからの論証」でAを言っていて、Bは同じ本で言ってることから私が考えたことで、「多宇宙と輪廻転生」でCを言っている。(Bはこちらでは、言えないと言っている。理屈はよくわからなかったので、自分で考えてみようっと。)
Cから輪廻転生が導かれる感じみたいだけれど、その帰結よりC自体が興味深いしほんとか考えたい。
物理的状況や記憶が同じなら同じ意識が生じるということより、今ここと全く同じ世界で私が生じていないことも十分あり得たということと比べたい。
他者の意識があるとすればそれも同じく。意識がまだ芽生えていない胎児や赤ん坊がその時点で、もし成長すれば、"誰"の意識がそこに生じるかはわからないし(どういう人生を送るか完全にわかったとしても。)、哲ゾになるかならないかもわからない。そういうことと比べたい。もし輪廻転生を考えるなら。
現在の倫理観との整合性を考えるなら、意識がない者が完全な人間ではないと思われているということで十分ではないのかな。

私はなぜ生じたか


●私なしの世界というものはありえるか


私は私が死んだ後も世界が続くことを想像できる。今現在私がいないこの世界というものも仮想できる。私が生まれなかった世界すら想像することができる。
私の居ない大きな箱庭。だれも見ていない。

しかしそれは私が存在したことがあるからそれらが想像できるのだろう。私が存在したことがない世界を想像することだって出来るが、それは現実には私が存在したことがあるからだ。

この世界が開けるには私が存在するしかなかった。現実には私は居て世界は開けている。


●私が居ないことはありえたか


問題は、私が居なくてつまり世界も開けていなかったという状況がありえたかということだ。普通に考えればあり得たように思える。
でも実はよく考えたらあり得なかった、ということがわかれば私が存在する不思議は解決する?
あるいは、何か私が存在するべき仕組が働いていることが考えつけたら。(まずは必然的に私が存在する仕組として、どんなものがありうるか?)

他者と中の人、脳と観測者


他者に意識があるかどうかは知らないが、皆、自分には意識があると言い、クオリアが出現していると言う。
(そして私の脳も私という観測者の存在を知り得ないが、まるで知っているように考える。)
その説明の候補を考えてみる。


・他者は哲学的ゾンビだけれど、なぜか脳はそれに中の人がいると言いたがるように出来ている
(脳は観測者を知り得ないが、なぜか知っているように思い込みたがる)
・実際に中の人は居て、その人が脳に「中の人は居る」と言わせている
(脳と観測者は実は連携可能あるいは一体で、脳&観測者が「観測者は居る」と言っている)


後者の方がシンプルな説明ではないか。
後者が正しいとするなら、脳と観測者はいかにして連携しうるのか?

しかし観測者が脳に影響を与えているとか、オカルトだなー。物理的なものと非物理的なものが一緒くたになった機構とか。実はこの世界は物理だけじゃ説明できなかったりして。あるいは意識に関する全く新しい物質や動きや仕組があったりして。


●観測者と思考


「自分で考えている」ということは錯覚になりえるのか。とあらためて考えてみる。
前に本で読んだ話を思い出したとき出自を忘れて自分で思いついたように錯覚してしまうことはあるだろう。どこかで聞いた音楽を思い出して自分で作ったと錯覚することも十分あるだろう。
それらの場合、自分で思いついたとか自分で作ったというのは誤った考えだけれど、そう思っている、考えているというのは自発的にやっていることだ…
…なんて言えないな。それは普通に自由意志がないという意味で自分で考えていない。他の考えと同じように。
自分で考えを観測している、と、自分で考えの内容を決めている、は違う。それはそうだ。考えの内容を自分で決めていないことは観測者など考える前からそうだった。
しかし観測者の関係で考えるのは、なんか違う視点の可能性がある気がする。自由意志という既存の枠組みでなく考えてみよう。
思い込む、勘違いする、ということの仕組を考えたら良さそうだ。
自転車練習中の人が、そうとは知らされずすごいバランスアシスト付きの自転車を与えられて乗れて、自分で乗れるようになったと思い込む。
それこそ脳に電極入れられて何かを考えている状態にされる。←これは違うな…脳がもともと自由であった、自分であったとしないといけない…


そう思い込んでいない状態とはどういうものだろう。というかいろんなパターンを考えてみる。
A 観測者と思考があって、
A−1 思考が観測者の存在を何らかの方法でちゃんと知っている
A−2 思考が観測者がいるとは思っていない
A−3 観測者が思考に影響を与えている(それはもう観測者ではないか。)
B 思考だけがあって、
B−1 観測者が居ると思い込んでいる
B−2 観測者は居ないと思っているが根拠はない
…いや、私がいないということはないから、思考と私が一体という場合だこれは。
C 観測者だけが居て、
…まてよ、観測者が見ている思考がないということがありえるのか?(これまで自発的に思考しているのが定かでないことがすなわち思考が存在することが定かでないと思い込んでいたが。)この思考っぽいものが何かは知らないが、”観測者が観測している”という中でのこれはあるのは確かだ。思考っぽいものが普通のイメージでの思考かどうかはわからないが、この思考っぽいものも確かにある。 
従来考える思考というのは別に脳が関わっているとかいうわけではない。私の自発的な思考ということ。


観測者がいるとなぜか確信している思考、という一連のフィルムを見せられている観測者、という状況を考えるより、観測者と思考が分かてないと考える方が自然ではないか。だから思考は観測者がいると信じているのだと。観測者と思考が分かてないとすれば、それはどういう状況だろうか?


私が前のブログで観測者について考えていた中に出てきたのは、思考という計算機は観測者の存在に気付き得ないということだった。しかし思考は観測者の存在にあたかも気付いているようだ。それどころか思考は観測者の思考であるかのように、観測者が思考しているかのように感じる。
思考が観測者の存在を演繹的に導き出すというのはできないはずだ。では思考が観測者をいると信じるその仕方は、論理ではなく、単純にそう感じるということだ。今痛い、かゆい、丸く見える、赤く見える等々に、なぜそう見えると考えたのかと問うてもどうしようもない。
思考が観測者を、自分を観測するもの、兼、自分を生み出すものだと感じるのはそういう仕方によってだ。否、思考は意識ではなく、観測者が意識なのだから、こう言うべきだ。観測者は…あれ、観測者は観測しかしないのだった。
観測しかしない観測者なんて者はいない、という状況を考えてみよう。観測だけじゃないそいつのことを今は意識と言おう。


A 脳と思考は別々で、意識が思考も繰り出している。
B 思考と脳(本人の体)が影響しあっている。
C 思考とか脳とか外界は整合的につながっているけれど、意識がそれらと影響しあっている。


脳と思考が別というのはちょっと考えにくいから、Bを考えてみよう。つまり、思考も繰り出している意識が、自分は居ると考えているだけだと。意識さんは考えもするし観測もするよと。考える(考えて且つ自分の考えを観測するとかじゃなく、ただ考える…ただ考えるってなんだ?)こと、外界を観測すること。それらを意識さんはしている。
(観測者の観測でなく外界のみの観測をここでは投影と呼ぼうかな)


外界←→身体←→脳←→投影、思考
※{脳←→投影、思考}の部分が私。


こんな感じ?なんだか常識的っぽいけど。脳は私だと考えた方が実は自然かもという仮説。そして矢印は全て双方向なのだ!

誰かが周りと上手くやっていきにくい性質を持つ場合、どちらがどちらに合わせるべきとされるか


意志によって変えられる可能性がゼロでない場合についてのことである。
笑いながら人をたたく癖とか、怒りんぼう、泣き虫、恥ずかしがり、根気がない、等々度合いは様々であるがよくあることや、メンタルの病に由来することまで。


上手くやっていけない度合いはそこそこあると仮定しよう。
上のような言葉はたいてい本人が悪いという意味も含むと思うが、あらゆる性質は本来よくもわるくもないだろう。それが他人と関わる段になったとき、上手くやりやすいかやりにくいかということしかない。
そして、度合いが平均からはずれている場合にその人は泣き虫と言われたり怒りんぼうと言われたりするだろうが、一人一人にとって自然に振る舞った結果がその人の泣き具合や怒り具合なのであるから、だいたいの人が普通にやっていて今のようになるのと同じように、泣き虫や怒りんぼうの人にとってもそうなのだ。
もしそういう平均から外れている人が自らのことを是認しているのであればその人はこう思うだろう。「普通にしていると周りと合わないことがある」と。「自分は普通(=皆と同じ)にできない」とは思わない。


そして、平均から外れている者の人数比が少ない場合、又、周りが被る迷惑の度合いが大きい場合に、その平均から外れている者が直すべきとされるほうに傾くだろう。
その泣き虫なり怒りんぼうなりが、直せる見込みが少ない場合、すなわち何かそうなってしまうという医学的裏付けがある場合、医者が直せないと言っている場合、一般的に直せないものとされている場合、周りが合わせることがむしろ善いこと、そうすべきこととされるだろう。