Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

三浦俊彦「これは餡パンではない」感想

  • 表題作「これは餡パンではない」

うんことタナトス。みたいな。
三浦俊彦さんは相変わらずうんこが好きだな。そしてそんな三浦さんが好き。

  • 後半に収録の「枯野をただようオブジェ」

この記事の中の人は俳句に関して、古今のすごい人についてほとほと不勉強な只のへたっぴ実作者です。戯れ言と思って読んでくださいませ。


旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉


{夢の中で私が/夢が/私が、夢である処の}枯野をかけ廻る
このどれか、という話なのだが、私は{夢が}としか思ったことがなかった。それ以外なんて思いつきもせんかったわ。

志半ば病んでしまい、これから実現するはずだった夢が行き場をなくし枯野をかけめぐっているかのようだ。なお想いは消えず、狂おしくて。芭蕉の胸の中の嵐。
学校の先生もそんな感じで言っていたような気がするが。
とても強い想いである「夢」が、それ単体でさながら生き霊のように現実の枯野をかけめぐっている。行き場のない悔しさに。芭蕉がそう感じている。
初めてこの句を見たとき(中学生の時?)そうイメージした。
病に伏してろくに動かない芭蕉自身の体と、それに反して、否、だからこそ狂おしく吹き荒れる嵐のような心中。その必然の対比。


「夢は」の「は」が多義的なことより、「夢」が多義的なことの方がややこしい要因だと思う。将来の夢と、寝て見る夢と。
先ほどの三つは、芭蕉の状況から考えれば
{(寝て見る)夢の中で私が/(将来の)夢が/私が、(寝て見るor将来の)夢である処の}
となるだろう。三つ目は両方考えうる。
一つ目は「私が思い描く将来の夢の道筋の中で私は行き場をなくしてかけめぐる」と考えれば(将来の)のほうで考えることも可能か。


「夢が枯野をかけめぐっている」と取ればこれは「擬人化」だ。しかしそれは「夢」=「私」と見立てた擬人化ではなくて、「夢」が枯野をぐるぐるするのを「かけめぐる」という人間のような言い方で表現する、という意味の擬人化だ。


っていうか、一句の中に主観的視点を感じさせないようにするのはよくある基本戦略なのでは。「私」とか「吾」という言葉を入れるのは裏技的だし(一句が短いからね)、俳句は短さゆえにできるだけ要らないものは排されて、主観的視点も敢えて欲しいとき以外基本排されるのでは。
まあでも「旅に病で」の主語は明らかに「私」なんで、それにも関わらず中七下五では主観的視点を排したんだ!ということかな?

続・のぞき考

その前に書いたやつ→のぞき学原論 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと


最近、三浦俊彦さんがとても好きだ。本人と知り合いになれたらどんなに素敵だろうと思うけれど、なれないほうがよいかもしれない。
手の届かない種類の人のままだと、当然だが「失う」こともない。
氏の著作を読み切ってしまうまでは、少なくとも楽しくいられるだろう。
↓三浦さんの本の感想みたいなやつ(最近の分だけ)
久々に図書館楽しいと思った。kindleだけじゃなくて。 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
M色のS景 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
通りすがりのメンヘラビッチが処女のこととか考えた。 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
この部屋に友だちはいますか? - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
のぞき学原論 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと
三浦俊彦「これは餡パンではない」感想 - Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

  • 著者と読者の関係とそれに似たもの

著者と読者の 一方通行=片想い=覗き 的在り方。
まあでも本は基本他人に読ませる為に書いているわけで、不特定多数に、思考を覗かれているというより曝しているわけだが。
しかし、著者は私を知らない。私が読んでいることを知らない。
それが一つの覗き的形を作ると言えないだろうか?
これはヤラセ盗撮AVの被視体と観賞者の間にも言える。芸能人とファンもそうだ。
芸能人とファンは知り合いではなく、基本的に相互ココミュニケーションはないので、上に書いた「失う」ということがない。嫌われる不安がない。
苦しい恋愛をするより芸能人のファンになったほうが賢いと言える面もある。

  • 相互コミュニケーションのない関係

窃視者は、ばれないという前提が崩れなければ被視体とも相互のコミュニケーションはない。(相手が知り合いでもその窃視行為の中では相互コミュニケーションはない。)
その為、嫌われる、失う、ということはない。
相互コミュニケーションに自信がなくても、又は、仲良くなったとしてもそこまで見せてもらえるほどになる自信がなくても、覗きは楽しめるのだ!

  • 片想いと覗きの比較

一方通行=片想い=覗き と書いたが、片想いの基本形は「一応知り合い(相互コミュニケーション希薄)」で、覗きの基本形は「見知らぬどうし」という違いがある。
(以下設定してみた基本形についての話。)
片想いは相互コミュニケーションが希薄なので、コミュニケーションによって嫌われるほどのやりとりもないだろう。
(容姿や雰囲気が無理、と思われる可能性はふつうにあるが。)
それでも、片想いは相互コミュニケーションをしようと思えば可能であるという状況が、覗きと違う点だ。
覗きはその前提において相互コミュニケーションを排している。
嫌われるかもしれないけれどうまくいく可能性もゼロではない、相互コミュニケーション可能な状況というのが片想いの中にいる人を苦しめている。芸能人のファンや本の読者や窃視者と違って。

  • 小説と盗撮AVの比較

三浦俊彦さんの小説でこんな場面がある。

主人公が「誰かが美術展を見てまわる自分をどこかから覗いているのではないか」という気分を抱き、そのあと次のように書かれる。

居るのではないか、黒い観察者が。観客が。真っ赤な読者が。覗き屋が。
三浦俊彦「これは餡パンではない」河出書房新社 p95より)

三浦さんもちゃんと読者を覗き屋のモチーフで捉えておるな。
まあ、ここでは作者への覗きではなく、登場人物への覗きだが。登場人物は基本物語の外の世界の存在など知らないわけで、作者と違って自分を他人にさらしている意識など皆無なはずだ。
(物語を読んでいて、登場人物が読者---物語の外を意識する。不覚にもはっとしてしまった。「ソフィーの世界」的だけど、また少し違う感覚。最初からもうメタ丸出しの作品だとはっとしないけれど、そうじゃないからね。)

盗撮AVにおける被視体、撮影者、観賞者。小説における登場人物、作者、読者。という対応が成り立つ。小説に対応する盗撮はヤラセではなく本物盗撮だ。被視体も登場人物も、この日常の外にそれを見ている視点があるなどとは思いもしない。もし思ったら、それは「メタ的」であるとされる。