Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

活憲の時代

伊藤千尋さんという人の講演集。
朝日新聞に勤めてて、いろんな国の支部にいたりした人みたい。


まずコスタリカという中南米の国について。
コスタリカは日本と同じように平和憲法を持つ国で、でも日本と違ってちゃんとその憲法を活かしてるんだって。
日本は自衛隊とかあるけど、コスタリカは警察と国境警備隊しかない。
安保はあるらしいけど。
他にも、政府や社会に対して、働きかける、声を上げる人々について紹介してる。
9・11後のアメリカで、皆ブッシュさんを支持する中で、一人で反対した議員とか。
別の講演では白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々- [DVD]という映画をとりあげてる。
第二次大戦中のドイツでナチスに抵抗した「白バラ」という団体に属していたゾフィーという女性。
彼女が捕まって尋問を受けた4日間の記録を元にした映画。
ゾフィーは初め、当時の他の多くのドイツ人と同じようにナチスを支持していた。
しかし彼女のお父さんは言う。
ヒトラーという人がどんな人か、自分で調べてみなさい。それを知って支持するかしないか決めなさい」
お父さんは自由主義者だったのだけど、ナチスがいかに悪いか説いて娘の意見を変えさせようとかしたんじゃなくて、娘に多くのことを知って自分で判断することを勧めた。
あと、健康保険制度のないアメリカの話とか。


印象に残った論旨は三つ。
憲法を活かそう」
「思っていることを主張しよう」
「いろんなことを知って、自分の頭で考えよ」


一つめ、憲法について。
憲法(と法律)についての話題って、とりあえず二つは見る角度があると思うんだよね。
1.憲法が共同で守ることにしている約束ごとであるということ
2.憲法の内容についてどう思うか
という二つ。
1については、そういう何らかの約束ごとを設けて社会生活をしているということが、面白いと思うし、賢いことだと思う。いいアイデアというか。
で、ある人が「憲法違反はしちゃだめ!」って言ったとしたら、その理由は二つありえる。
ひとつに「ルール違反だから」。もうひとつに「憲法の内容が良いものだから」。
前者だったとしたら、皆で話し合って別のルールに従う、ということも普通にありなわけだよね。
憲法を活かそう」というのは、だから、憲法の内容を良いものだとした上での勧めなんだ。
あるいは、今の憲法を良いと思っている人に対しての勧め。
だって悪い憲法だったら活かすどころか変えたいもの。
憲法だから良い のでも、 良いから憲法 なのでもないわけだ。
もちろん、良い憲法の下で暮らしたいわけだけども。(良いってなんなのかはまた複雑だが。)


二つめ、主張については、これは、どんな考えの人に対しても言えることだよね。
あなたの考えを主張せよ、声をあげよ、って。


三つめ、自分で考えろ、について。
これはすばらしい勧めだと思うよ。
皆が他人に対してこういう態度を取ってたら、もっと素敵で面白いだろうな。
ゾフィーのお父さんは、実際どんなふうに考えてたんだろう。
自分の信じる意見があって、且つ他人にこういう態度でいられるんだなぁ。


一応貼っとくwiki
コスタリカ - Wikipedia
         



私の考えてることを述べさせてもらうと。
作品と論理について、と、信念について。


作品と論理について。
人が人に何かを伝えるとする。
感じたこと、考えたこと。
たとえばきれいな風景を見て何かを感じ、それを一言では伝えられないから、詩にする、小説にする、絵にする、音楽にする。
そういう、芸術作品とかは、ふつうの言葉(きれいだった、とか)であらわせない、すなわち伝わらないはずのことを伝えてしまうというすごいツールだと思う。
だけどその方法で伝わるのは、そういう(ふつうの日本語にない)何らかの感情を聞き手がもとから心のどこかで知っていて、作品を見せることによって、それですよ、と指差している状態なのだと思う。
だから、その感情を共有していない、その感情を元から全然知らないという人には伝わらない。
(子供のころ読んで感動しなかった本に大人になって感動するとかはこれでしょう。初め知らなかったそこに秘められている感情を、知るなんらかの経験があったから。)
じゃあそういう、その感情やら経験を共有していない人に何かを伝えるときに使われるのは何か。
論理です。
物語に対して言えば、説明文です。
感情を共有してない人には、その感情を伝えることはできない。
そういう人と対話するとき、論理に、説明文に何ができるかというと。
言葉にならないはずのことを伝える魔法のツールは使えない。
だから言葉を使います。
一言で言えないことも、たくさんの言葉を組み立てて説明したら、その分だけはやり取りができる。
(論理体系が違う人はどうするか? 一部の、同じ論理の部分を使ってなんとかがんばるしかないのかなぁ)
芸術作品で、伝わらないはずの感情を伝えるのもとてもすばらしいと思う。
だけど、感情を共有しない人と、論理で話すのもすばらしい。
違う思いを持った人とつながる道具は、論理なのですよ。


信念について。
信念っていうか、意見? そんなすごい話じゃないけど。
信じるものがある。自分の正しいと思う道を見据えて進む。ゆるぎない信念。
それって、ふつう良いことだとされるよね。
意見なんてない。分からない。あるいは一応意見があっても、間違ってるかもしれないと思っている。
なんだか、頼りなく見える。
だけどある意味私は、後者でいたいと思っている。
たとえば上で書いた「いろんなことを知って、自分の頭で考えよ」って話。
10個のことを知って、甲が正しいと思ったとする。
でも11個目のことを知ったとき、ほんとは乙が正しいって分かるかもしれない。
考えても考えても、考えつくすことはできない。
どんなに正しいと思える考えも、崩れる可能性が常にある。
私はそう思ってます。