Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

AURA〜魔竜院光牙 最後の闘い〜 田中ロミオ

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

重いテーマです。
ちょっとやそっと温めただけじゃ書けないテーマだと思います。
正直言うとライトノベル(というかキャラクター小説)に偏見ありました。
片手間に読んでました。が。
泣かされました。何この苦しみのリアリティ。
(でもその分ウツになります。読む人は心して)
森絵都の「つきのふね」とか、ちょっと思い出しました。


彼らの行動は、本当に自己顕示欲によるものなのかな。
ここではない場所、今ではない時間が輝いて見えるときというのは、私の場合、現状が苦しいときだ。
そしてその圧力が耐えられない程度まで高まれば、そこから逃れるために、火事場の馬鹿力的行動力を発揮してしまったりする。
それは、現実の苦しみがそこまで達したときの警鐘。
彼女が「親はいない」とうそぶいたとき、主人公は、冗談でもそんなことは言うなと咎める。
しかし彼女にはそう言うに至った理由があるはずなのだ(勝手な想像だが)。
主人公はそれをわかって、自分は確執や齟齬を乗り越えて親を愛し、そう言うのだろうか。
「(世の中には)いいこともあるけど……悪いことはその数倍もあるよ」
主人公のこのセリフは言いえて妙だ。
現実が苦しいとき、どうするかは、ここでは主に3つ。
 ・狂う(空想が軸であれ学問その他が軸であれ)
 ・死ぬ
 ・我慢する
(私としては他に、価値観を変えるとか、原因となる人や場所から離れるとかがあると思うが、言い出すと長くなるので割愛)
間違ったことを信じていたら、正してあげるのはいいと思う(何が正しくて何が間違っているのか決めるのはとても難しいという問題は置いておくとして)。
でも死のうという意思を持った人に対して、やめてとかだめだとか言う権利があるのは、その人を愛している人(且つ利己主義者)だけだと思う。
そのへんしっくりこない。
あと何回か読んだらわかるかしら。


でも何だろう。
私はまだこのことについて、「この世界で生きる(か否か)」ということについて、十分に考えつくしていない。
論理的にではなく意味的に、様々な法則や事物が理由もなく現実化している「この世界」。
「可能世界」に対する「現実世界」。
そこで生きているということについて。
そのことについてもこれから、私なりに考えて行きたいと思わせてもらった。
この作品の結論がすべてではない。
私は……どう思っているのだろう。