Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

又吉直樹「火花」

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)


主人公が神谷に惚れ込む冒頭の時点では神谷がどういう人なのか具体的にまだほとんどわからないが、描かれるエピソードを通して読者にもだんだんわかってくる。まさしく伝記的、なのかな。面白い。

歌舞伎や能の起源は神に捧げられる行事であったと聞いたことがある。確かに誰にも届かない小さな声で、聞く耳を持つ者すらいない時、僕たちは誰に対して漫才をするのだろう。現代の芸能は一体誰のために披露されるものなのだろう。


ヘンリー・ダーガーとか想いますよね。
あとネットで絵や文や歌や踊りをやる人とかね。というか自分。
誰も読まない文章書くために新しい高いポメラが欲しいとか思っちゃうのは何なんでしょう。


ふざけた曲を作ったとき、聴いた人が笑ってくれたらどんなに嬉しいだろうと想像する。自分が書いた曲やいじった曲を誰かが歌ってくれるだけでもものすごく嬉しいけれど。

早いテンポで話した方が情報を沢山伝えることが出来んねん。多く打席に立てた方がいいに決まってるやん。だから、絶対に早く話した方がいいのは確かやねん。


迅速なコミュニケーションが可能な言語はそれによる文化圏すら形成する。筆談と手話の差。


印象的に描かれている「太鼓のような細長い楽器を叩いている若者」との交流の場面。
この細長い打楽器が何なのかすごく気になる!(ちなみに村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のあの楽器もとても気になる!)
この表現欲ばかりある無口なアーティスト()が"私たち"であるというかんじがする。自分がそういう人種であると。
あと、公園で叩いてるからといって、必ずしも聴いてほしい訳じゃないんだよ、神谷さん。音楽やる人はいつも、出来るだけ騒音が迷惑にならない場所を探しているんだよ。だから部屋を出ることもあるのさ。

あの不思議な楽器を本気で叩かない世界は美しくない。男がどのような経緯であの楽器を手に取ったのかはわからない。しかし、男は世界のために人生を賭して楽器を叩くべきなのだ。


私も不思議な楽器を弾き続ける!世界のために。


合コン的な場面の主人公の、女の子に興味がないかんじ。というか、異性に対して異性として関わろうとするのが標準なかんじの女の子に興味がないかんじ。
学生じゃなくなってからくらいに自分のいる場所のせいだろうが、フィメールに生まれただけでチートだと思っていた。どんなに話が下手で可愛くなくて人間としてかなりだめでも、フィメールだというだけで伝説級のアイテム持ってるようなものだと。
でもちょっとそういう場を出ると、実力なくてしかも女とか、虫けらみたいなものだ。優しい人に囲まれて育ったから、最近までそんなふうに思わなかった。あと、勉強とかにおける脳の性能にデータとして男女差があると知ったのも遅かったし。多分、そういうのが隠されてる環境で育った。人は須くひたすら頑張れば報われる、という。まあ実際相対的にそうなんだけど。うまいやりかたを見つけるということを含めて。そう信じて、私も自分のジャンルで全力でやってた。属する集団の平均的能力の低さが自分の成長にむしろ有利に働くこともあるのではないかとも思っていた。
お笑いの世界における女とかも微妙な立場にいそうだと思った。多分、対等に話すには実力をつけるしかない。ゲームの世界とかでもきっとそうなんだ。お笑いだと同じネタでも男が言うのと女が言うのでは違うネタみたいになるものもあるだろう。ゲームにおいては内容自体にそのような差は無いが、コミュニティの構成員として主に占める性別がどちらかというのは一応遊びであるゲームにとってある程度大事なのではないか。学問の世界とかではどうなんだろう。自分は始まる前に降りてしまったけれど。
音楽にしても何にしても、下手なりにせめて昇ろうとしていたい、かも。


又吉さんを最初に知ったのは芸人としてではなく、自由律俳人としてだった。彼の自由律俳句の本も再読したい。


恐ろしい蠅川柳も気になった。冒頭の花火大会での漫才と同様、通じないコミュニケーションのバリエーションだ。私も前は言葉がわからない赤ん坊に対して日本語で話しかけるというのがなかなかできなかった。


辛いのを紛らわそうと活動的になっている人と、楽しくて充実している人の区別はどうやったらつくのだろう。

好きなことやって、面白かったら飯食えて、面白くなかったら淘汰される。それだけのことやろ?


伝えるということはどれくらい大事なのだろう?思いつくということに比べて。私にとっては。


笑いながら泣いたけれど、笑いながら泣くことって意外と少なくて、思い出せる限りでは三谷幸喜「ラジオの時間」とシュレック4ぐらいだ。


表現者にとっては不幸こそがいい環境なのだ(太宰がそんなかんじのこと書いてた気がする)として、もし幸福を手に入れる権利を得たならば、私たちはそれでも表現者でありたいと思うだろうか?
そう考えるとなんだか憂鬱になる。神谷さんはずっとこういう人生なのだろうなと思うと。

結婚して子供を持つことが即ち幸福だと思うことは、いい学校いい会社に入ることが即ち幸福だと思うことと同じくらい可笑しなことだと思う。それらが幸福につながるような人がそうすればいいだけだ。別に一般的な幸せのモチーフとして書いてるだけだろうけど。
では私にとって幸福とはなんだろう。気の合う人と一緒に暮らせること。多少友達がいること。食費や水道や電気や通信費が払えたり電子機器や文房具や、たまには楽器が買えたりする金があること。働かなくていいこと。アニメ見たり歌ったりできること。多分それらがあれば生きていける可能性が高くなるので、生きていけること。
思い切り表現して死ぬ、というのも美しくてよいと思うけれど、それは幸福とは違うな。どちらが「よい」かは知らぬ。


しかし暗い気持ちになるなあ。神谷さんを見ているとこういう気持ちになるというのがよくわかる。世界は理不尽だな。こりゃ芥川賞も取るわ。美しくなくても、面白くなくても、幸せに生きたい、できれば。でもそうできなければ、せめて面白いものを生み出していたい。


神谷さんという人間をたまらなくいとおしいと思うのは主人公だけではないはずだ。ちょっと尾崎豊的なかんじかもしれない。
あとヘンリー・ダーガーにもとても惹かれるんだよなあ。


でも、タイトルとリンクしているコンビ名が神谷さんとこのじゃなくて主人公とこのというのも、考えさせられる気がする。そこまでわざとなのかわからないけれど。