Aminosäureがsichになるまでの間に考えたこと

本などをきっかけに考えたこと。

働く

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。「働きたくない」というあなたへ
ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。「働きたくない」というあなたへ2
ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。「働きたくない」というあなたへ3
ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。「働きたくない」というあなたへ4
働くということに関して思うこと。
「働くべきだ」というのは仮言命法であって、けして定言命法ではないと思う。
お金が必要なら働けばいい。(生活費レベルであれ、もっとほしいのであれ。)
お金がなくても質素な生活でかまわないなら働かなくても良いと思う。
お金が十分にあるなら働いても良いし働かなくても良いと思う。
ズーニーさんの言う「自由」は、確かに親や夫に養ってもらっていれば手に入らないかもしれない。
しかし働くことで失う時間や明るさが「自由」よりも大事だと思う人もいるだろう。
それから、「居場所」についてだが。
社会とのつながり、好き嫌いを超えたところでの絆が"ズーニーさんにとって"大事だということは、『「働きたくない」というあなたへ1』でよく分かる。
しかしそれがほかの人にとっても大事かどうかはわからない。
働かないことがつらくても、働くことをもっとつらいと感じる人もいるかもしれない。
「どうせ働かなければならないのなら、正面向いて仕事と向き合おうよ。」
『「働きたくない」というあなたへ4』の例はこういうことなのだろうか?
これは(仮言命法的にでも)働かなければならない人を対象にした話なのだろうか。

こんなことを考えていたら最近とてもタイムリーな講演を聴くことができた。
介護界で有名な三好春樹氏の講演である。(2/19 於:ミード社会館「老人ケアに紙芝居セミナー」の中で。)
老人や子供の、周りとのつながり方について。
"彼らは「社会」ではなくて「世界」と直接つながっている。"
その言葉がとても印象的だった。

お金との関係などで、仮言命法的には働かなければいけない状況もあると思う。
社会とのつながりの中でしか手に入らないものを必要としている人もいるのだろう。
しかし、山田ズーニーさんや村上龍さんが言うように、人生に必要不可欠なものは本当に仕事でしか得られないのだろうか?